根性

水泳に行ったら、壁に『アクアスプラッシュ』というポスターが張ってあった。”募集 30名 無料 火曜日 14時から”とある。(お、ちょうど、今日ジャン!)というわけで、思いつくと考える前に行動する私は内容も訊かず申し込んだ。


水の中で音楽に合わせて運動をするものであった。やりだすと全力かけるのが好きな私はガムシャラにコーチの言われる通りに挑戦した。
プールを出て、夫を迎えに行く前にスーパーに寄ったが、そこでもお身体中ガクガク。


余談だけど、大分前のことだが、車で片道二時間近くかかるところにヨガを習いに行ったことがあった。その時、上級者の人の中にマジラサレ、わけわからないまま周りの人の見よう見まねで参加していたのだが、先生の、「はじめての人はやらなくていいですよ。」の言葉を無視して頑張り、初心者にはデキナイハズのことをやり、先生に驚愕されたことがあった。でも帰り、車の運転ができない状態になった。それでも運転して帰った。二度とヨガには行かないと決心した。


・・・こうしてヨガは一日で挫折したわけだが、だいたいにおいて私は、何事をやるにも”挑戦している経過”が好きなのだ。無私に頑張る感じ。成果はどうでもいい。ぎりぎり自分を賭ける、この感覚が好き。なぁなぁは死ぬほど気持ち悪い。勤めをやる時なども、ただ自分の限界をかけてやりたくなる。評価などほんとにいい。・・・だけど、職場やグループ内では、こうした私の無私意欲は競争意識や利益を求めてのように理解される。それがわかったのは数年前である。驚くばかりの決め付けがあった。思えば、その人たちこそ、競争意識や己の利益を求めることしか知らない人たちであったのだろう。それを悟って、すっかりその世界への関心を失った。つまらないのだ。人々が貧しく見えて仕方がない。


でも、この自分の”決め付け”も上等ではない。貧しい。無私の意欲の結果を受け止めて、なお昇華する努力をしてこそ、人間としての、他者を受け入れられる存在に成熟するのだろう。そして真の自信も。私はそうした成熟と自信を求めていたのに、それを自ら否定してきたのだ、結局、現実を乗り越える真の努力はしてこなかった、とこの頃やっとわかってきた。まったく無能かつ貧しい。


あれ? 余談がまた重くなってしまった。
話をもとに戻すと・・・アクアスプラッシュなるものに参加して体中ガクガク、という按配で今朝になったのであるが、今日も夫を迎えに行く前にはプールに行くんだ!


そうだ! 我と我が身の合言葉は”根性”にしよう! 根性って言葉大っ嫌いだったんだけど、思えば今の私に必要なのは”根性”だ。そうだ、そうだ! 何事にも頑張るぞぉー!

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