夫の病歴

これはある別のブログに書いていたものだが、ここに転載しておこうと思う。

私の夫は只今『要介護4』の認知症。自宅介護で、平日はグループホームでディサービスを受けている。毎日が、『今日も何かがおこる』状のてんやわんやな日々である。

■1989年(55歳)
東京都渋谷区内にある職場の食堂で昼食中に倒れ、 信濃町慶応病院に運ばれる。
脳梗塞』と診断され、一ヶ月半の入院の後退院。右半身と言語に障害が残り、そのまま退職。

■1990年冬
現在の住まい、茨城に移転。森と田園に囲まれた環境の中で、猫や犬たちを友とも家族ともし、のんびりとした生活のスタート。
ほどなく夫は半身麻痺も言語障害も克服し、オートバイに乗れるほど回復する。気ままに図書館や買い物に出かけ、普段は読書三昧と生活になる。
私は、夫の介護をしなgらも、童話や児童文学を執筆する活動に専念できるようになる。

■1999年9月23日の朝未明
二階で仕事をしていた私が階下のトイレに行くと、そこでぐったりとしている夫を見つける。
「どうしたの!」と手を握ると、微かに握り返してきた。「すぐに救急車を呼ぶから!」と119番する。「救急車が来ますから頑張ってね!」と再び夫の手を握ったが、この時はもう握り返す意識はなかった。
救急車は、一度隣りの市の病院へ。そこで「これは脳関係です。うちでは対応できない。」と、つくば市内の脳外科のある病院へ転送される。この30分間の不安と、『どうか助けて!』と神に祈った懸命な思いは、生涯忘れることはないだろう。

I先生という若い医師の手による、頭の四箇所に穴を開ける大手術を受け、助かる可能性は20パーセントと言われた”生命”を取り留める。

■この年の暮れ
めでたく退院。病院では当初、「寝たきりか、よくても車椅子生活になるだろう。」と言われていたのだが、歩行、食事は何とか自力で出来るまでに回復していた。
だが、排泄感覚がなく、いわゆる垂れ流し、という状態で、また夜間の徘徊、幻視状態などが多くあった。

■2000年のはじめ
退院して自宅介護となっていたのだが、高熱がでる。すぐに手術をした病院の内科の診断を受ける。『インフルエンザ』という診断で、その薬をいただいて帰宅。
この時私は、一抹の不安を感じていた。なんとなくであるが、風邪やインフルエンザというものと違う、と思えていたのだ。咳の様子や熱の出方に違和感があった。だが一応、内科の先生の診断を信じて、その夜、いただいた薬を飲ませる。
朝方、熱が一気に35度を割ったのを知って、病院の受付が始まる前に、この時意識はあるが歩行が出来なくなっている75キロの夫を引きずるようにして車に乗せ、病院へ駆けつける。

主治医のI先生が運よくおられて、診察を受ける。
「内科の医師がインフルエンザと言ったのならそうでしょう。脳関連でないことは確かですから、もらった薬で様子を見て下さい。」
「先生、血液検査をして下さい! インフルエンザの熱の出方と違う気がしてならないんです。」
「どう違うんですか?」
「そ、それはわかりません。ただ、直感です。これまで夫が風邪で熱を出した時のパターンと違う感じがするんです。インフルエンザの場合、解熱剤で熱が急に35度以下になるのは普通のことなんですか? 何か、別の重大な病気と考えられませんか?」
「じゃ、一応血液検査をしてみましょう。」

こういうやりとりをして、血液検査をしていただいた。
夫を検査室のすみにあったベッドに寝かせ、私は傍で結果が出るのを待っていた。
しばらくして、I先生が血相を変えてとんでいらした。
「肝臓の数値が異常です。至急入院して下さい。この数値が少しでもより悪くなったら、一時間と生命はもたない。」
そして先生は、カルテを片手に、電話をかけ、相手の方に(前回検診を受けた時の医師)、まるで怒鳴るように言われた。
「この前Sさんが(夫のこと)検診に来た時君が受けたね、薬の量が増えている。その○○○の副作用だと思うが、肝臓に異変がおきた。まるで劇症肝炎の数値だ。すぐに手を打たねば!」
これらの全部を耳にして、私はもう卒倒しそうだった。
だが、パニクッテはいられない。こうなったら先生を信じてまかせる他ない。
入院して、点滴の管だらけの夫を二人の息子と囲み、私は再び不安の極地の時間を過ごしたのだった。
幸い、先生方が数人でプロジェクトを組んで治療に当ってくださったことが功を奏し、一ヵ月後、夫は無事に退院した。原因はやはり脳関連の薬の副作用という。


この経験で思ったのだが、医師の診断が必ずしもあたっているとは限らないということだ。少しでも違和感やおかしいと感じた時は、検査を求める勇気を持っていたい。家族を守るのは、最終的には家族である。


退院後しばらくの間、徘徊や幻視がより多く出た。
認知症』(当時はまだ痴呆症と言っていたが。)と明確に診断される。

■2000年春より
町内の老人養護施設のディサービスを受け始める。この時の介護度は『要介護2』であった。
ディサービスを受けはじめて以後、主治医の先生も驚く回復を見せ、徘徊や幻視状態が消え、自転車に乗って町の図書館へ行き、好きな読書を楽しむまでになる。
だが時折、混乱状態になることはあり、この頃、自転車で図書館に行ったまま何時間も帰らず、必死で探し回ったところ、25キロ離れた町で、顔の半分が擦り傷で血だらけになっている姿で見つかったことがあった。

■2002年12月24日
この日、自宅で自分の仕事をしていると、ディサービスから電話。夫の様子が少しおかしいので来て欲しいとのことだ。すぐに駆けつけると、夫は車椅子に乗っており、目が焦点があわなくなっており、言葉も呂律が回らない。
脳梗塞かまた起きたのではないか、とそのまま筑波の病院に行く。診断は、やはり『脳梗塞の急性期』だということだ。またもそのまま入院。
この時は幸いなことに脳梗塞は薬の治療でおさまったのだが、院内感染で肺炎を患ってしまい、一ヶ月と20日に及ぶ入院となった。
2月に退院をしたのだが、認知症は決定的となり、『要介護4』と重く、今日に至っている。