駒大苫小牧高校の殴打事件にこだわりますが

私は、暴力そのものは嫌悪するし、否定するが、”暴力事件”ということをあまり神経質にとらない。子供であろうと大人であろうと、時と場合によって、結果的に暴力事件になることはあるだろうと思うのだ。それは暴力を肯定しているのではなく、人間が生きている中で、そういう事態になってしまうことがあるのを受け入れているだけだ。そして、そんな事態になってしまった当事者に同情することもよくある。
だが、上と下の関係の中で、立場に乗じて、下の者に、安易に暴力をふるう者には憤りを感じる。(言葉やいじめや排他などの暴力も含めて)駒大苫小牧高校の事件も、部長という立場で、過度な暴力に至ったなら、親の抗議は当然だ、と思うのだ。
・・・が、この問題、それ以上に、気になってならないものが自然に自分の胸に生じるのです。
『自分の子供が、暴力を受け怪我をしたら、その時すぐに真相を知ろうとし、抗議すべきことと知れば、即抗議をするのは当然なのに、なぜ今までそうしなかったのか。』『生徒はどう見てるのか。特に殴られた生徒。この事件の根元の真相をとらえているのは生徒だろうに。』『部長がおこした暴力問題が、なんで優勝旗剥奪という論理が出てくるのか。』
・・・当然、調べる人たちも、当事者の人たちも、必要なことにあたっているのだろう。何発殴ったか、などということに照準をあてているのは”マスコミ”なんでしょう、ね。ともかく私は、生徒たちが正当に守られることを祈っている。