杉原千畝物語

ナチスから多くのユダヤ人を救われた杉原千畝さんのことは何年か前に本で知ったが、その時、『人間はこうやって生きれるのか! このように生きた人がいるのか!』と全霊が震えるような感興があった。この震えは、マザーテレサがこちらに鷹のような鋭いまなざしを向けておられる写真を見た時もあった。偽善欺瞞の存在が無垢にならざるを得ないだろうと思わせるような、あの、塵ほどの世俗も寄せ付けない無なる目。無垢ということはこんなにも怖いのかと知らされた視線。
数日前に、杉原千畝さんを描いたドラマを放送していた。いつものことながら、全部をゆっくり観ることの出来ない事情のある私は、切れ切れに観ただけなので、ドラマとしての評価云々はできるほど把握していないが、ラスト近く、千畝が日本に帰ってきてからのあるシーンのことが印象に強かった。千畝が、6000人ものユダヤ人を命がけで救ったことを、お金をもらってのこと、お金目的、と日本の同僚(外務省内の)たちが思っているとわかるシーンだ。
私は実際は、彼らは、千畝がそのような人間ではないことをわかっているだろうと思う。だからこそ、『お金目的だろう』と決め付けることで、自分たちの及ばない崇高な精神を持っている千畝を貶めたのだろう。それは本能のパッション、負のパッションであったのだろうと思う。そのことに、私は千畝のために涙を流した。どんなに寂しかっただろう、と。でも千畝さん、素敵な奥様があなたを支えておられてよかった!
それにしても、日本に帰られてからの千畝さんは、お子様を亡くされるなど、悲しい運命が次々と襲ったのですね。私は、神はなぜ、このような心を持ち、真に正しく愛に生きた人を苦しめられるのか、と辛かったです。