『願い』『祈り』という挑戦

サイトの『月のはじめに』に、昨年11月から、作家の青山圭秀さんの瞑想の講義を受講して、瞑想をはじめたということを書いているが、昨日、青山先生のセミナーがあり、”『バガヴァッド・ギーダ−』英知のサーンキヤ・ヨーガー”の勉強をしてきた。
これはどういう勉強かと言うと、まだまだ何もわかっていない私が説明してはとんでもない誤りを表することになりそうなので、西洋・東洋医学の母体とされている『アーユルヴェーダー』という生命科学の祖のひとりとなるアルジュナが、神の化身と言われるクリシュナの言行を書き記したものの勉強、とだけにしておこうと思う。宗教ではなくて、心身の健康や、生き方の指針を求める上での瞑想、とも言っていいかと思う。

とても充実した講義で、夫をディ施設にショートスティをお願いしていった甲斐があった。昨日の講義は、『”自然”というものは無駄ない。全てが必然。』ということを中心として、私たち人間は、しばしば厳しい選択を強いられる局面に立たされることがあるが、そういう時の”決断”を、自然の法則(クリシュナの真理)の前でどうしたらいいか、を『バガヴァッド・ギーダ−』の中の人間模様を浮き彫りにしながら提示をされ、古代の神々の物語を楽しみつつ深いものを得たのだった。

私は自分が何らかの問題と直面すると、その現実の前にすぐに自信を失い、自分の本質を見失い、周りの無責任な言動に翻弄されるという弱さ、貧しさに苦しんできたのだが、そうした自分とも闘うように私なりに生きてきた。常に、自分の内部に、自分を叱責するもの、自分が求めるものを削除することはなかった。
そうした求道のひとつが、児童文学であったし、プロテスタントの教会に通い、洗礼も受け、クリスチャンとして生きようともした。でも精神・心が満たされることはなかった。いつも、他者の欺瞞、力ある側(その場での権力ある側)の狡さに追い詰められていく実感があった。・・・頭では、これらは結局は他者によって自分が満たされようとする、私自身の弱さの問題で、自分の生きるべき道を大らかに進めばそれだけでいいのだ、とわかるのだが、愚かな私は常に他者が許せず、その自らの”檻”でもがくばかりであった。時には檻の獣が発する咆哮のような言動に及んだこともあった。それにより、尚自分を追い詰めていくのである。

青山圭秀さんの著、『理性のゆらぎ』以降、私の触覚は、”瞑想”をとらえてきた。だがなかなかそれに行き着くかなかった。私は次々に背負う荷物の重さにあえぎ続けているだけだったのだ。
それが、2005年11月、青山さんが、瞑想の講座を開いていらっしゃると知り、何ということもなくひょっこりと、「じゃ、受講しよう。」と出かけたのである。
私は何も求めていない。ただ、自分の弱さや愚かさが、現実におこった物事を通して自分を歪めてしまった、それによって失った、生きるに必要な、”己の自信”を取り戻すべく自分の”復活”を望んでいるのだ。
瞑想を通して、私は自分の復活がすぐ近くにあるのを感じている。

そんな実感を自分に確認する上で、捨てられる猫や犬に関する、サイトに出している自分の表明文のようなものをここでも公開しておこうと思う。
私の家が、猫や犬の捨て場のようにされ、自分や生活を蝕んできた現実は、私を苦しめる要因の最もおおきなことのひとつであったからだ。

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『願い』『祈り』という私の挑戦

ここは、生き物や自然との共生の願いや、動物や小さな生き物を捨てたりいじめたりしないでという願いを発信している、まおあきら(マオアキラ)個人のサイトです。動物の引取りや預かりはしていません。

私は子どもの頃から動物や鳥たちが好きでした。生き物を見かけると、どんな時も親しみの感情がわくのでした。そして大人になったある時期から、単に動物が好きとか可愛い、と言うだけではない交流になっていきます。それは、1978年の春は4月、桜満開の下のノラとの出会いからです。
小さな痩せ細った三毛猫のノラ。私の”永遠のノラ”となった小さな猫。

ノラとの出会いから、私は、多くの猫たちや犬たちと、生活をともにする運命を選ぶことになったのです。と書くと、”猫や犬たちとの優しい心温まる生活を顕そうとしているのか”と思われますか?
もちろん、あの仔らが私にもたらせてくれたものは全てがそうでした。奇跡のように。でも、それだけでは決して生きられなかったのです。癒しようのない深い傷を負ってきました。人々が、どんどん我が家に猫や犬を捨てに来て、しかも私が全部を引き取るのが当然としてくる、その自分勝手と無責任と無理解と冷酷から。それらに賢明に対応できず、ただ怖れるだけだった自分の弱さと心の貧しさと情けなさから。

そして、どんなに守ろうと心を尽くしても、自分の無力からどうすることも出来なかったことも数多くあったその悲しみと悔いから。
これらの傷、悔い、呵責、怒り、悲哀、理不尽の思い、やりきれなさ、切なさ・・・etcは、人間不信のみならず、私から、”普通の生活”と”自分の自信”を奪い、私の精神と神経を蝕んだのです。

私は自分を蝕んだものへの『挑戦』として、このサイトを開いたのです。この世に生まれて、母親の懐以外のものを欲しがることなく、なのに、深痛の中で滅びていった沢山の生命への鎮魂と惜別の想いとともに。

ここで言う『挑戦』とは、『願い』『祈り』です。『捨てないで! 殺さないで! 追わないで! いじめないで!』という願い、祈り。
どうか、想像してみて下さい。
捨てられた子猫や子犬が、必死で親を呼び、探し、飢えと不安と寂しさの中で力尽きて死んでいく、その哀れさを。
老いて捨てられた猫や犬が、どんなに自分が生きてきた安住の場所に戻りたいと願うか、その切なさ悲しさを。
・・・もう止めましょう。小さな生命と心をこれ以上傷つけることは。そうしないために、例えば、子犬、子猫を産ませない手術をする方法があります。正直言いまして、手術もむごいことです。
でも私は、この二十数年間に、捨てられた猫たちや犬たちの悲し過ぎる運命を、これでもかこれでもかとばかりに知ってきました。知りたくなどなかったのに・・・。私などが、どんなに心と力を尽くしてもどうしてやることも出来なかった痛ましい姿。やはり手術をして産ませないことしかないと思えてなりません。

捨てられる猫や犬は、飢えや寂しさの果ての死以外に、実験動物にされるという悲惨な運命を負わされることもあります。
私は動物実験に反対します。人間の幸せの追求のための実験は、生命ある動物の犠牲に寄らない方法をとるべきではないか、現代ならそれが可能ではないのかと考えています。
医学の進歩は必要ないと言ってるのではありません。進んだ医療によって、多くの人の生命が守られることには感動します。また私や家族も恩恵を受けてきました。
ただ・・・そのかげに、どれだけの生き物が凄絶な苦痛を強いられ、あげく生命を絶たれているか、そのことを思う時、”これでいいのか、人間の幸せのためなら、他の生き物は道具にしていいのか”と、天に烈しく問うて問うて問いたい思いにかられるのです。

これまで、あらゆるものを可能にしてきた人間の”英知”というものは、あらゆるものを人間のために犠牲にさせてきた結果でしょう? これまでは、そうする必要があった。そうして英知たる成果を生んできた。
でも、これからは、生き物の生命を道具としないでできる時期にきているのではないでしょうか?これからの”英知”は、それを可能とするところにあるのではないでしょうか?


『挑戦』はほかにもあります。
*動物を抱え、社会から理解されず、人権を蹂躙されている人たちのことです。
これは、私が、動物たちの生命を守りたい、という思いを持つ時、常に提示されてくるものです。  私もそのひとりになっていますが、動物を実際に抱えた者はしばしば、生き物に生命があるな  どとあまり考えない人々からはおろか、動物を保護するべき行政や、動物を愛護している側の  人々からも、曲解や中傷や一方的な決め付け、見下し、はては方策まで押し付けられるという  形で、人間としての尊厳を傷つけられることがあります。
動物を多く抱えた者たちは、見るからに奇異な生活になってしまっていることがありますから、誰かがその気になれば、容易に疎外し、世間からの理解が遠のくようにすることが出来ます。
そうなった時、奇異に見られることや疎外感を耐えている者は、自分を保っていくことは難しくなります。心身ともに疲れきり、どうでもいいという思いに蝕まれ、なお孤独になります。
どうして、小さな捨てられた動物が親を求めて泣くのを見捨てられなかった人々が、動物を置いていかれるという過酷に加えて、そのような理不尽を耐えなければならないのでしょう。
その人たちにも確かに問題や欠点はあるかも知れません。その人たちのほうも、世間を拒否し、頑なになっている場合もあるでしょう。私自身もそのような傾向に流れることがあります。
でも、私は言いたい。そのような個人個人の特性や、せいいっぱいの抵抗の頑なさ以上に、社会はもはや自分と異なるものに心を開く広さや厚みを失っていると。それは冷ややかさ、あるいは無関心という形であらわれ、時には、ちょっとしたことでよってたかって、”一人”を許さないあらわれ方をすることがあります。
残念ながら、動物を見捨てることのできない人たちは、その”一人”にされてしまうことがある。
  
ここに私の、願い、祈りという『挑戦』があるのです。
*動物を抱え、社会から理解を受けず、まるで悪いことをしているか、無能者のように決めつけられている人の側に立ち続けると。

長くなりました。この動物の問題はやはり重過ぎるくらいの影響を私に与えているということなのでしょう。
この二十数年間に、私の家や近くに置いていかれた猫や犬は400匹を越え、一匹もよそに捨てたり、保健所に依頼したり、また誰かに頼ったり押し付けたりはしてこなかった、この私の現実は、まさに、”望まない、だが一歩もひかなかった闘い”でありましたから。あまりにも、苦しく、寂しく、孤独な闘いでしたから。誰からも真の理解も評価もされない、せいぜいあるとしても、見下した評価や苦笑の理解でしたから。
でも、私は、人生はトンネルの中の迷い道を突っ走っているだけ、のように思えた長い時間の中から、やっとこの頃、”挑戦”をこえる”真実”が見えてきた気がしているのですよ。
<猫だろうと犬だろうと、大きな生き物だろうと小さな生き物だろうと、そして私だろうと、全てのものは、自分が生まれた、あるいは自分が求める”場所”で、己のままに、悠々とのうのうと生きていいのだ。それは、天の下、当たり前のことなのだ。その当然のことを望みとして生きよう>と。

もしかしたらこの後、私は、”人生とは平安なものだ”、ということを実感できるかもしれません。ここで発信するものも、怒りや悲しみや疑問などだけでない、生の喜びが主流になるかもしれません。やっと。