人間でいるのが嫌になる時

はじめて人間でいるのが嫌になったのは、中学生の時だった記憶がある。戦争について作文を書いた時に、自分の体験を辿りつつ、本や人の話などで戦争の実体を見聞きし、『人間でいることが嫌でたまらなくなった』。
成人してからでは、水俣病を知った時、人間でいることが強烈に嫌になった。薬害で想像を絶する苦しみを受けている人たちを、排除しようとした企業や行政や世間のやり方、視線がどうしようもなく許せなかった。
捨てられた猫や犬と生活するようになって、人間でいることが嫌になることは日常的になってしまった。この問題は、”たかが猫や犬の問題と片付けられがち”であるからこそ、人間の薄っぺらさや残酷さ、冷酷さの部分を浮き彫りにし、多くの猫や犬を抱えて苦しむ当事者としたら、体験的にしばしば人間でいるのが嫌になるほどの辛さを味合うのである。
だがそれでも年月が経ってくると、こうした実感は諦めとも覚悟ともいえる心境に達してくるとともに、自分が鍛えられたというか、何かことあるごとにいちいち、人間でいるのが嫌になった、という心情に埋没することが少なくなった。

イラクでのさまざまな状況などが報道を通して伝わった時などは、やはり人間でいることが耐え難いとも思うし、子供への虐待、生き物への虐待の報道は平常心を失いそうになるが、意志力の方が勝って冷静に受け止めようとする強さを自覚するのだ。


だが昨日、そうした強さなど微塵に壊れ、『人間でいるのが嫌で嫌でたまらない!』と烈しく思うことがあった。それは、ハンセン病に罹り隔離された人が妊娠をすると、強制的に中絶させられ、その赤ちゃんがホルマリンにつけられていた、というニュースを聞いたからだ。この”事実”はかなり前に、本で読んで知っていた。その時も、そのような決定をし実行する権力を持つ人間を烈しく嫌悪し、人間のおぞましさがたまらなかった。
昨日のニュースでは、八ヶ月で無理やり中絶をさせられ、”生まれた”赤ちゃんの泣き声を聞き、だがお乳もあげられず、それどころか目の前で助産婦に、赤ちゃんが口と鼻を塞がれ、小さな身体をぶるぶると震わせつつ死んでいくのを見させられていた、と話される女性が出られていて、この時、本当に本当に本当に人間でいるのが苦しかった。


私ごときが祈ったところで独善、自己満足でしかないが、そうやって殺された赤ちゃんと、どんなに守ってあげたかっただろう、だができなかったお母さんと、お父さんのために心から祈ります。