イツカの死

昨夜は、イツカが死んでしまったことで眠るのが気が重かった。きっと夢を見る、と思ったからだ。若くして死なせてしまった可哀想さにはうちしおれるばかりだ。
思ったとおり、重い夢を何度も見て、そのたびに目が覚めた。目が覚めるのは、夫の様子を確かめるためにいつもそうしていることなのだが、そうしたことの疲労とは違う重圧感がある。


私が好きで拾うだろうという決め付けの上で、私の近くに次々と猫や犬を置いて人たちは、自分の勝手さや無責任さが、人をこのように追い詰めていることを想像もしないのだろう。そうしたことを、私は、『世間はこんなに薄っぺらく嫌らしくなっている』と思うようになった。最近、そう思うことも、嫌になった。社会や世間や人を、そのような認識をして、老いて、死んでいくのかと思うと、自分が悲しくてたまらなくなる。
そう思うと、イツカの死と、自分が辛くて、布団をかぶっておいおいと泣いた。


ここ数年、体力も気力も澱んでいくばかりである。そのことは夫や犬たちにも影響する。だから、私なりに本当に自分を叱咤し叱咤して頑張っている。だが体力も気力も下降を辿るばかりである。


友人たちのいたわりや、ネットの面白さに支えられて頑張っているが、何かがおこるごとにそのダメージは驚くほど重くきつい。
これから、夫とともに、笠間の動物霊園にイツカを連れていく。


笠間の霊園は、県の動物指導センターが経営している。ある時期まで、県をはじめ、動物行政は、動物たちの生命や心を感じることなどなく、殺せばいいと思っているだけだと思い、また私のように、経済も自分の健康も犠牲にしながら、それでも目の前で親の懐を必死にさがして鳴く小さな動物をどうしても見捨てることができず、抱き上げてしまい、結局、近隣から迷惑だ、という苦情を出され、どんどんどんどん追い詰められていくものを、理解しようとするどころか、苦情を言う側と一緒になって追い詰めると感じていた。だから、指導センターが霊園を作っていることが、こんな欺瞞はないと憤りさえ覚えていたし、そんなところに死んだ猫や犬を連れていって供養をしてもらうなど考えなかった。


だが、昨年から、ここに連れて行っている。経済の破綻が大きく、民間の霊園に連れていく力がなくなってきたのだ。費用が一万円は違う。こうした”背に腹は変えられぬ”という世事に従うのは、自分の堕落を示しているにほかならないと、身を切られるような思いがする。
・・・だが、『ここまでは妥協しよう・・・』と決めた。