光 母子殺害事件最高裁判決 差し戻し

1999年4月、山口県光市で、当時18歳だった男が強姦目的で押し入り、23歳の母親と、生後11ヶ月の赤ちゃんを殺した事件の最高裁判決があった。
無期懲役』だった一審、二審の判決を『差し戻し』、つまり、無期懲役はないことにし、最初から裁判をやり直す、という決定が下った。
司法の専門家の方々の意見によると、この場合の『差し戻し』は『死刑』と同意語と言っていいほど、死刑判決が出る可能性が大きいという。
実際判決文には、殺害の残虐性や逮捕後の反省の無さを見ると、判例を覆すべき極悪と言わねばならない、という意味の言葉があったようだ。(少年法の範囲の中では、死刑の判決が下されるのは四人殺害した場合、の例があるが<既に死刑が執行された永山則夫さん>、今回の犯罪は二人殺害でかつ計画性は見られないから、判例通りで考えれば死刑には当らずとされ、一審、二審は無期懲役の判決であったと言う。)


ここまで言い切っておきながら、なぜ最高裁は、今回、『死刑』の判決を下さなかったのだろうか。
最高裁は、ご遺族の痛みの強さ、世論を無視できず、さりとて、犯行当時まだ18歳の少年であったという事実をもって、判例を乗り越える勇気がなかったのだろうか、ということと、犯人の更正を信じ、あるいは願い、それが新たに裁判をし直す中に見出される可能性を残すべく、裁判のやり直しという決定になったのだろうか、などなど考え込んでしまったのだが・・・。


この事件は、あまりに痛ましい。殺された若い母親は、その時どれほどの恐怖におち、なおどれほど傍で泣く赤ちゃんを気遣い、犯人に救いを求められただろう、と思うと、この犯人が恐ろしく、悔しく、憎い。


だが、この気持ちのままに、犯人を『死刑』にするのが当然、とは思えないのだ。世論がそうなればなるほど、死刑にして気持ちをおさめてはいけない、いつまでもそういう社会であってはいけないと強く思う。
殺された若い母親の夫である本村さんの心の叫び、考えを否定するのではない。
本村さんの犯人に対する言動に対して、いったい誰が否定したり、異をとなえたりできるだろう。
できるはずがない。この人は、愛する妻と、生後間もない、誰にも悪意を持ったことのない赤ちゃんをむごい殺され方をしたのだ。この人の怒りと悲しみから発する全部を神は抱きしめられるだろう。私たちの誰が、とやかく言えるだろうか。


それでも、死刑にしてはいけない、と言うのは、本村さんに反対する上ではなく、自分の『道』の問題として言うのだ。・・・長くなるのでここで。