いただいたコメントより『前田日明さんの言葉』

旅のつばめさんが、このブログのコメントで記入されていたURLがある。
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50471710.html


『別冊 正論』という雑誌の中の、
《発掘対談》「在日」と「日本人」の間で…
格闘家・前田日明/文芸評論家・慶応大学教授 福田和也

のプロレスラー前田日明さんの言葉を抜粋されている。

 

日本のやった戦争に問題があったのは確かだけれど、当時の日本人にしたら、煩悶、苦悩を重ねた末にやらざるをえないと覚悟を決めてやったわけでしょう。男子に生まれ、徴兵されたら、否でも応でも闘うしかない。なかにははっきり嫌だと思っていた人もいただろうけれども、一応は「お国のため」という大義名分で自分を納得させたはずでしょう。 そういうそういうギリギリのところで国とか公に殉じた精神、心根を汲まなくて、全部あの戦争は侵略だったみたいにして断罪するのはそれこそ卑怯だと思います。敗北と言う結果が分かっていて、まるで時間のカンニングペーパーを見て答案を書いているようなものじゃないですか。カンニングペーパーを使って、当時の人たちの行動を批評するのじゃなくて侮辱する。そういう人たちの書いたもの、言っていることというのは、もう本当に嫌ですね。しかも、自分は日本の罪を認めています、悔いていますという、自分一人だけを良心の高みに置いているような感覚がたまらない。

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私が特に感銘を受けたところを上に挙げました。
前田さんの生き方から出る真実の言葉の力を思い知るという意味と、人の真実の言葉は、どの問題や場合にも当てはまる、という意味で感銘を受けたのです。
戦争に対して、前田さんの熱情に溢れた洞察性には及びませんが、私も『光る夏ーたつひこ』という作品の中で、主人公の父親に、「わしらは正しいと信じて命がけでやった。それが根底から間違うとるといわれたら、わしらは何やったんか。」というようなことを言わせていまして、個人、個人の魂や心までも否定してしまい、そうすることがヒューマニズムとして他の洞察性をもたない考え、感じ方に不安を覚えています。


前田さんのこの言葉は、例え意見の違いがあったとしても、前田さんの魂の言葉として胸を打つのですが、ただ、この前田さんの言葉を他者がもってきて、他者を圧倒しようとすると、結局、前田さんの言葉をカンニングペーパーにして他に迫ってることにならないか・・・という思いがよぎるのです。(どんな問題を語る時にもこういうことはよくありますが。)
今回、旅のつばめさんから、これを提示されて、人の多くは、何らかをカンニングペーパーにして人に対抗している、ということに気づきました。私には重要な気づきでした。
カンニングペーパーを持ってきての論理には、何も洞察がないですからね。このことは凄く怖いことだと思います。
ともかく、いろいろ考えさせられました。旅のつばめさん、コメントと問題提示をありがとうございました。