<野生生物との付き合い方><認知症の母を殺した事件>

私の至らぬ記事に、心に深く共感したり、あらためて考えさせられるコメントをいただくことが多い。
認知症の母親を殺した人の事件に対して、miyataさんが書いて下さったコメントは、介護が社会化された部分があることはいいことなのだけど、当事者にとっては、個別の事象の中であがいてると言われているところに、思わずうな垂れてしまうほど実感を持ちますし、事件に対して、”ちきしょう”と思ってしまう、そこの切なさに、ひとり唇をかむものがあります。
野生生物との付き合い方について、問題点を言い切って下さったノエルさんのコメントは、読む方の胸に爽快に響くと思います。

認知症の母を殺した事件>へのmiyataさんのコメント
マオさん、こんばんは。こちらにコメントする方が良かったかもしれません。最近読んだ上野千鶴子の「老いる準備」という本に、介護保険は家族革命だったと書いていて驚きました。理由は以下の通りです。
『「介護はもはや家族だけの責任ではない」という国民的合意ができたからこそ、介護保険は成り立った。これを介護の社会化という。社会化の前は、なんだったかというと、介護は私事化されていた、つまり「家族の責任」だったのである』
上野さんによると、様々な個別の事象は制度が着地していく課程の問題であるということになりそうです。なるほど大変わかりやすく整理された内容の本だったのですが、お役所の報告書を読んでいるようでした。まあ、国立大学の教授だからあたりまえでしょうけど(笑)。
介護の社会化というのは介護保険を考えると一般的には確かにそうなんだろうなと思います。でも、我々は個別の事象の中であがいてるんですけどね。樋口恵子さんや彼女たちの献身的な運動の中でこの介護保険は制度化されてきていたんですね。この人達は実際に介護に苦しまれたかもしれませんが、問題の立て方がやはり「上から下へ」なんだと思います。あるいは下から各個別の事象から問題を抽出していったかもしれないですけど、辿り着いたところから個別に戻る道を無くしちゃったのではないかと思います。
最近ふと思うのですが、やはり怒りを組織化しなくてはどうにもならないのかなあと漠然と考えてしまいます。マオさんの絶望や孤独、怒りは卑しい八つ当たりとはちっとも思わないですよ。
私はこの事件に関して悲しいと思いましたが、泣くまいと思いました。ちきしょう、殺せるんだったらもっと戦えと言いたくなりました。たとえかっぱらいをやってでも、殺さずに生きろと。お前のとった手段は、最悪の最低のまさに相手の思うつぼではないかと。私はだけど心底そうやって言い切れるか、言葉を飲み込んで鬱々としておりました。』 (2006/07/22 00:47)

ノエルさんの<野生生物との付き合い方>に対するコメント
『ほんと、やめてほしいですよね、こういう報道。
っていうかその女の子にも「野生の生き物とは距離を置く」って言うことを
教えてほしいです。
そういうちょっとした事からバランスが崩れていってしまうんですよね。
旅館に来る狸等の野生動物も本当は半分飼うみたいな事
しないほうがいいに決まってるんです。
それでお客を呼ぶのだったら、その旅館には何があっても最後まで
責任を取る義務を背負わせるべきです。
都合のいいときだけ利用するのだったら本当に許せません。
日光のサル達だって初めは面白半分に食べ物をあげた
観光客が悪いんです、それを今ではギャング扱い・・・。
いい加減気づいてくれないのでしょうか。』