臓器売買

私はずううっと以前から臓器移植を反対していた。誰に訊かれてもそう言っていた。
理由は、医療がそこまで立ち入ることへの恐れと、臓器売買が行われるだろう、と思ったからだ。大分前から東南アジアなどでは、子供の誘拐の多くが臓器がとられることにあるという報道もあったし、そのことを考えると身の毛のよだつ恐怖と怒りを覚える。(人でなしはどこまでもいる!)


ついに日本でも臓器売買がニュースになった。よく何か事件がおこると、それはたまたま露呈したことで、実際は氷山の一角で下ではもっと多く行われているだろう、と言われるが、この臓器の売買も他のところでも行われているのではないかと思う。
やがては、人の臓器をとるための殺人も行わられるだろう。もうあるかもしれない。


それにしても私が懐かしく大切に思っている亡き実母の故郷宇和島の名前をこんな事件で聞くとはトホホホである。
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追記1:「医療がそこまで立ち入ることへの恐れ」と言うのは、よく『神の領域』と表現されることがありますが、それに近い感覚です。
また私の場合は、ここまで医療の発達がしてきたもとに、多くの動物が実験に使われ、生きたまま麻酔もかけず身体を切り刻まれてきた歴史を知っており、今もそれは続いている真実の前に、うなだれ『私はいい』という思いと、『人間は一体なんだろう・・・肉を食べ、医療の発展に生き物の生命をもらっていながら、人間のどれだけの人が、動物への畏敬、尊重、慈愛、感謝の気持ちを持っているだろう・・・人間はこうやって君臨するものなのか? それは誰が赦しているのか? これでいいのか?』という思いにしめつけられることも含んでいます。


追記2:臓器売買が必ずしもお金を得るためにされるという単純な発想で語られるものではないことはわかっています。このケースも、お金のためではなく、友人を救いたい一心の行為であったかも知れません。(本当のことはわかっていません)・・・そういう例であることも多いとしたとしても、私は追記1で書いている通り、臓器移植は反対と思っています。但し、それを願い、実行している個人を批判する気持ちはありません。気持ちとしてよく理解できます。臓器移植をすれば助かる、という事態になったとしても、私は『しない』ということです。

動物実験の現場は、人間である自分の命を助けてもらうために、『動物たちがかくも残酷なことをされているのか・・・!』という衝撃を与えました。
この衝撃は、『もういい! もうたくさんだ! 人間はどこまで己の幸せだけを追求したいのだ!』という思いを絶対のものとしています。そういうことです。