三輪中学校の生徒の自殺

昨日から、三輪中学校の男子生徒が自殺した背景に、元担任の教師の無慈悲で無分別な言動があったという報道が盛んに流れている。
その教師や校長を自宅で、テレビカメラの前で、怒りと悲しみを露にされているご両親の様子も報道していた。


どれも胸えぐられるようで画面を正視できない。
どれも真実だろう。でもどれも歪曲され、隠されていることがあるだろう。


ただ歪曲も隠し事もない真実は、あの男子学生が、以前からメモのような日記を書いていたというあの文には、SOSSOSSOSSOSSOSと助けを打ち続けていた、ということ。そのことを思うと絶望的な気持ちに陥る。


私が8歳の時、継母が自殺をした。8歳だった私でも、父親の冷酷や保身志向が継母を死に追いやったとわかった。そして自分が気難しい神経質な子であったことも、継母を死に至らしめたのだと感じていた。そのことの重さが、しばらくの間、私から言葉を奪った。言葉を出そうとすると、胸がいっぱいいっぱいに膨らんで今や破裂するような感覚を感じたのだ。
辛い時代だった。
あの時代に、学校の担任のKという教師が私を<いじめ>た。その時はそうは思っていなかった。ただわからず、担任の冷酷な言動を耐えていた。
当時は、一時間が終わるごとに休み時間はなく、ぶっつづけに二時間の授業があった。生徒たちは、トイレに行きたくなると、挙手をしてトイレに行きたいと告げ、許しが出ると行った。
私が言葉を失っていたその時期のある時間、生徒が何人もトイレに行ったが、私だけ許されなかった。
K先生は、「そこでせいや。」と言った。
我慢できなかった私はそこでした。いいえ、したのではなく、出た、のだ。
私はそのままどうしていいかわからず突っ立っていた。先生は無視し続け、大分たって、「いつまでションベンしたままそこにおる! 保健室に行けや!」と怒鳴った。
保健室に行ったが、女性の小太りの教師は、私に、「家に帰って着替えて来なはいや。」とけんもほろろの言い方で言った。
この日、雨が降っていて、私は子供の足で三十分っかる道をもんぺを濡らしたままトボトボと歩いて家に帰った。途中、大人の誰かが来ると、私は傘を後方の地面につけて歩いた。つまりもんぺが濡れているのを悟られたくなかったのだ。思えばおかしい。子供は大人にすぐ見抜かれることを必死でやるんだな、と。


この記憶が、私にそれほどのダメージを与えていないのは、誰だったかそのことは覚えてないのだが、大人の一人が、私の様子に気づいて、「学校の先生は、着替えもさせんと、この雨の中、濡れたまま一人で帰したんか! なんとむごいことするのお!」と私のために泣いてくれたのだ。それから、着替えてまた学校に戻った私に、クラスの誰かが、「和ちゃんはエライのお、また学校に戻ってきたんやから。勇気ある思うよ。」と言ってくれたことだ。(私は勇気があって戻ったのではなく、どうしていいかわからないので学校に戻っただけだったが。笑)


同じような言葉は、他の大人も生徒も口にした。だが、殆どは、自分を思いやってくれてるのではなく、面白がって言ってるに過ぎない、と感じたことも記憶している。


あのSOSの言葉を打ち続けてついに首をつって死んでしまった生徒に、”たった一人”の必要な人はいなかったのか・・・そのことが辛くてならない。もしかしたら、あの生徒は、もしそういう人がいたとしても最早それでも救えないほど傷ついていたのかも知れない。・・・だとしたらもっともっと悲しい。

この日記を書いていて、小学校の頃のことを思い出した。六年の時の先生は、本当に優しく公正な方だった。
小学校を卒業と同時に父のいる東京に移転したのだが、この先生からよく励ましのお手紙が届いた。
後年、専門学校生になってから、この先生に会ってお礼を言いたいと思ったが、バイクの事故で亡くなられたとのことで叶わなかった。
自分の人生を振り返ってみると、どちらかというと不遇であった気がするが、それでも、節目節目に大きな存在に出会い、そのことで生きる力をもらっている。この先生、松浦正夫先生は、最も悲しい時代だったあの時代の光のような存在であった。もうお一人、小学校一年の一学期だけの担任であったシカイ先生(漢字がわからない)もそうであった。このシカイ先生は早世された。映画『二十四の瞳』が忘れられないのは、高峰秀子扮した先生は、シカイ先生そのままっだったことにもよる。
あらためて、松浦先生とシカイ先生のご冥福を祈り、ご家族の皆様が今もご健在でお幸せでありますことを感謝とともに祈りたい。ありがとうございました。