バッシングあれこれとバーコを想う

もの思いにふけっているうちに眠れなくなり、リンクを辿っていくつかのサイトやブログを観てみると、広島のドッグパークで多数の犬たちが悲惨な目に合っているのを知り、懸命な救助を続けておられるアークエンジェルさんがバッシングの憂き目に合っておられるのを知って、またかと気分が塞いだ。
ついこの前、ノエルさんのミクシィで、女の子の臓器移植のことで、親が募金活動をはじめたら、それを、『死ぬ死ぬ詐欺』と決め付けてバッシングがあるのだと知ったばかりである。
イラクで拉致された三人の若者が国中の人からバッシクングされたのも記憶に新しい。
いずれもケースは違うわけだけど、根元は同じなんだろうね。
どんな理屈をつけたって、『妬み根性と微妙な見下し根性』から出るバッシングとしか思えない。見下しというのも妬み、嫉みの色が強い。乙武さんが自身のブログに秋篠宮家の赤ちゃんのことを書いてバッシングを受けたのもこれだ。


ところで、タヒチ在住の直木賞作家、坂東真砂子さんが、飼い猫が産んだ仔猫を次々崖下に投げて殺している、ということへの批判も、バッシングだと息巻いていた人がいた。売れっ子作家の東野氏に至っては、「一般の人間がブログなどという発言の場を持ったのが間違い。」というようなことを言われたそうで、本当に仰天した。
この人は、坂東さんを擁護したことで、自分が批判されるのを、「罪を犯したことがない、と言いきれる人だけ自分を批判せよ。」とイエスのようなことを言ったとかどうとかとも聞き、その時は仰天よりおかしさのあまりひっくり返って笑った。
エスが、この言葉を言われたとされるのは、娼婦マグダラのマリアが、イエスの衣に触れようとすると、群集が、「娼婦のくせに!」と石を投げようとする。それを見てイエスが、「罪を犯したことのない者だけ、この女に石を投げよ。」と言われたんじゃなかった? すると群集の誰も石を投げるものはいなかった。
まったく、このエピソードのどこをとって、坂東さんと東野氏にあてはまるのよ! バカにするにもほどがある。プンプン!


というわけで、坂東さんへの批判は、バッシングとは違うんじゃないの?
だいたい、坂東さんは、新聞紙上で充分自分をかばいまわっているんだから、立場としては強い側の傘に入ってる者でしょ。バッシングされたなんて思うのも筋違いっていうもんよ。
ただの猫殺しのくせに、自分の行為をいかにもな美化しちゃって。・・・←ハハハ、これはバッシング的要素の含む言葉かな。だってあんなウスッペラな美化が通るんだもの、ついヤッカミ入っちゃいまする。(爆)


今頃また坂東さんを蒸し返して、なんと虚しいことするのだろうと我ながらいやになるが、実はバーコが帰ってこなくなって三日目の晩を迎えて、どうしようもない無念さで胸が張り裂けそうだからだ。
何も坂東さんのせいと思うわけじゃない。ただ、結局、同じ類のものらが、何の痛みもなく、そこで無心に生きている猫という我らの家族や仲間や親友を捨て去るってことの無念。車の上に乗ったとか、そんなことで命までとって当然とする者らへの侮蔑。・・・だいたい、猫は車の上、屋根の上、どこにでも乗るものなの。乗られていやなら、何かかけておく。そういうことが、人間の”英知”と言うのよ。そうなのよ、英知はそういうことでもあるの。
それがいつの間にか、猫が車にのるから猫を”駆除”する。という浅はかな思想が当然になってしまった。これは人間の堕落、軟弱化以外のなにものでもないの。何度も言うが、動物愛護団体すら、その堕落を助けてきたの。なんてばかな! ここを闘わずして何の愛護だ。セレブ化を助けてきた愛護なんぞむしろ動物を苦しめているだけだ。
・・・これ以上は言葉にするまい。ここらでやめておかないと、呪いをかけたくなるからね。


ただ、バーコに。
バーコ、頑張れ! どんなになっても帰ってこい! お前の家、生きる場はここだ。お前は追われる罪など犯していない。罪を問われるべきは、お前を追った者こそだ。堂々と帰って来い!