太田光さんを考えた

一昨日の『太田総理・・・秘書田中』で太田光さんが提案した『世論調査を廃止します』は、二日経った今も胸の襞のどこかにひっかかっている。
この番組は、一部のゲストは除いて、殆どの出演者が、「視聴者の興味をそそるような議題を提示して、役割を決めて発言を演じているのだろう。」と思っていた。
だが、この『世論調査を廃止』を観て、そうした役割分担に従った発言ではなく、それぞれが真面目に自分の意見を発しているんだ、と感じた。特に太田光は毎回真剣に自分の意見や想いをぶつけていたのに違いない。


太田光さんは、『世論調査』そのものよりも、『日本人の物事を考える姿勢が、多数や力のある者の考えや言葉に左右される』ことを憂い不信している、と私は思い、そのことにいたく共感し、これが胸のどこかの襞に残ったのである。
残念ながら、”『物事を考える姿勢が、多数や力のある者の考えや言葉に左右される』ことなく、常に自分の洞察眼を持って生きる人”は本当に少ない。
実際、直接会って意気投合し、私の生き方に共鳴してくれた人が、そう長い時間を要せず、態度がガラリとかわり、のみならず、自分が共感の言葉を発したことまで懸命になんとかかんともっともらしい理由をつけてごまかす人すらいた。これは、他者の真っ赤な唇を信じての背信だとすぐにわかった。(もちろん、話している間に、私にガッカリした、ってこともありますが。何しろ私はたいした人間じゃないんだし、人という者は相手のちょっとした表情や一言に落胆したり、ゲゲとなったりして態度が変わることはありますからね。でもこの場合は、そういうことではありませぬの。)


・・・こういう人がいかに多いか。・・・このことへの寂しさの想いは深い。
一昨日の太田光さんの発言を観て、太田さんもこうした世間の悲哀をよく知っている人なんだな、と感じるものがあったのだ。


太田さんは、人気も名誉もお金を得て、尚この思いを痛切に残している。・・・このことに私は感銘を受けた。
人は成功すれば、それぞれ尊大になって、真実の傷をむしろ遠ざけるものだ。それをせずにいる人こそ、真の洞察性を磨いていく。時に、自分の成功で得た名声と引き換えても、その洞察性(魂)から見た自分の考え、想いを捨てないだろう。そう、妥協しないのだ。堕落しない、というのはここにあるのだ。

イラクで人質になった三人の日本人若者がまるで集団ヒステリーのバッシングにあった時のことを、太田光はこう言っていた。
「あの時、ぼくは生の報道番組やっていたけど、本当は、自己責任ってこういうのと違うんじゃないかと思ったんだけど、怖くて言えなかった。」つまり、周り中がバッシングをしているから、それに反対して擁護的なことは口に出すのは怖かった、ということだと思うが、こう言える太田光はほんとに名前の通り光のようにすら感じてしまった。


そうした意味において、太田光は、堕落しない人なのかもしれない、と思った。
だけど、これを、自分のためには言いたくない。自分の安心のために、人に勝手な期待を持つのは、結局は自分の強欲、エゴ、ウスッペラさを顕すものだ。


ただ、爆笑問題のファンであり続けたい、と想ったよ。