崖下の説明

誰も訊きたいと思っておられないのはわかっているが、自分のために、↓で書いた「崖下の人間と会わなかった」の説明をしておこうと思う。
これは、例えば、昔、千葉で1000匹の犬を救って守っている人がいたのだが、(今もご健在で、犬たちを守っていらっしゃると思う)当時、私が知り合った愛護団体関係の人は、ごくわずかの人をのぞいて、みんなこの人を非難した。非難する材料はいくつもあった。何しろ、1000匹もいるから、この人の家の実状は大変な有様だったに違いなく、それをひとつひとつ、”悪い”というスポットを当てれば悪く見えた。そうやって多くの愛護団体はこの人を苛め抜いたのだ。苛めたつもりはないのだろう。ただ浅はかな考えしかなく深い理解ができなかったのだろう。今のいじめと同じだ。いじめた側はその意識がない。
私はこの時、そういう人たちが大っ嫌いになり不信感をもった。
私は、千葉の彼女が不備なのは当然だ。あれだけの犬を守ってるのだから。あのようにしたのは、捨てに来た人たちだ、とこのところをどうしてもずらすことはできなかった。愛護という人たちがやるべきは、彼女を支えることだ、と私は言い続けた。今も同じだ。


ついさっき気づいたのだが、私が崖下の人と出会いたかった、という感覚は、あの千葉の彼女を、庇う人に出会いたかった、ということなのだ。
確かに、限界を超えた数の犬たちを飼う、というのは、犬たちがかわいそうに見えるところがある。私の家には、今18匹の犬がともに暮らしているが、常に、『一匹づつ、誰かに飼われてその人や家族の愛情を一身に受けるようになったら幸せなのに。これではかわいそうだ。』と思っている。
だが、それは、彼らを命がけで守っている私が、彼らの幸せを願うからこそ思うことであり、かわいそう、と思うことは、私だけが許される事柄なのだ。
精神的にも何にも力になってくれてるわけじゃなく、まして犬一匹救うことをしていない者が、たまたま雨のあとでぬかるんでいた庭を見たり、食器が汚れていたのを見て、「あんな飼われ方をして可哀想だ。」と言い、それを広めたとするとしたら、私は怒り、心の底からその人を軽蔑する。
だが本当に残念だが、愛護関係の人間も含めて、このレベルの人間がそれなりの力をもってそれぞれの場を仕切っているのだ。そう、崖の上は、こんな欺瞞が花盛りなのだ、ということだ。


崖上と崖下の違い、わかったかな?
ま、でも、ね、崖下には崖下のまた別の形や色の欺瞞の花が咲いておりますが・・・。(笑)
疲れたので、この話はこれでおしまい。
・・・あ、そうだ、ミクシィのコミュをこれにしようか。嫌になったらすぐやめる、という我が性癖を直したいと思っているので、どうしようと困っていたのだ。そうだ、これをコミュにしてみよう。