虐待だと思う

時々車で通る道筋に、気になる犬がいる。見るからに若犬なのにいつも一箇所にうずくまっているのだ。ある時犬小屋があったが、次に通った時には小屋はなかった。とにかく、若い犬らしく生き生きした感じがない。かなりの雨の日も、体中を雨に打たれて同じ場所にうずくまっている。飼い方に問題があるのは一目瞭然だった。
でも私は、そとめにはそう見えても、他者にはわからない愛情をかけて、犬もそれなりに満たされていることもあるのはわかるし、勝手な決め付けはよくないと思ってきた。


今日(日がかわって昨日になったが)のことだ。久しぶりにその道を通った。その犬が、前足を浮かしたような格好でいつもの場所にいる。車で過ぎる一瞬に見ただけだが、犬はどうしても何かを耐えている感じに見えた。道路はその場で急に停めていい場所ではなかったので、私は行き過ぎたが、(すぐに犬の様子をちゃんと見てみよう)と思った。近くのスーパーでジャーキーを買い引き返して犬のいる家の近くのわき道に入り車を止めてそこに行った。
心臓が止まりそうだった。犬は、地面に足がつかないように、そばに置いてある古洗濯機に縛り付けられていたのだ。私が近寄ると犬は、首をつられて前足が浮いた形のまま唸り吼えた。その唸り方と吼え方は、愛情を受けていない犬特有のものだ。子供がうかつに近寄ったら噛み付かれる様相があった。


家から人が出てきた。70歳前後だろう女性である。その人は、見るからに険しい表情で、「うるさい、何をしてるんだ。」と言った。私が手にジャーキーを持っているのを見て、「餌はやるな。」ときつい口調で言う。
「わかりました。餌はやりませんが、紐を少し長くしてやったらどうでしょう。前足が地面につかず、身動きとれないつなぎ方では可哀想ですよ。」と私は言った。
「いいんだ、これで。犬はこれでいいんだ。長くしたら畑に入る。」と女性はわめくように言う。
私は、「私に引き取らせて下さい。」と頼んだ。我が家はどうしたってもう一匹も増えるのは無理だ。私自身も極限状態である。だが、それでも、ここでこのように繋がれているより、我が家の方がいい。少なくとも私が、自分の都合は二の次にしてでも、劣悪な状況の中少しでも犬たちに心地よくいさせるように工夫をする。
だが女性は、「やらない。これまで、三匹盗まれた。これはやらない。」と言う。
「盗まれたんじゃなくて、その三匹は誰かに助け出されたんですよ。」と言ってやった! 「こんな飼い方をしていたら、指導センターの人か、警察が来ますよ。」とも言ってやった!
「来たよ。警察も指導センターも来た。」と言うではないか。誰かがあんまり犬がかわいそうなので、何とかしてやってくれという意味で通報したのだろう。それにしても、通報されて、指導センターも警察も一応行った(来た)のはアッパレである。見直した。・・・・などなど思いながら、「それでも、犬をこんな風に虐待して、あなた、よっぽど冷酷か頭がおかしいか、ですね。」とも言ってやった!
この時、女性の背後の畑の中で人影があるのに気づいた。50代ぐらいの女の人である。私がその人に気づいたとわかると、その人は、目配せをして首をよこに強く振った。どうも、「その人に何を言ってもだめ。やめた方がいい。」と言ってるようだ。
私もそれはわかっていたが、犬がこのままでいるのはあまりに可哀想だ。このまま去るわけにはいかない。とにかく足が地面につき、動けるようにひもを長くさせなければ一歩もひかない覚悟をした。
私の強硬な態度に腹がたったのだろう、女性は、そばにころがっているガラクタの中から、細い鉄の棒を抜き出して、私にめがけて振り上げた。
私は避けなかった。すると彼女は、「何でよけない? ほんとに殴るぞ。」と言った。
「どうぞ。私が怪我をすればあなたを訴えることができるわ。そこで、こんな犬のつなぎ方がいいかどうか、決めましょう。私はただのきまぐれでこの犬を助けにきたわけじゃないんですよ。犬のひもをゆるめて、少しは動けるようにしてやりなさい。」と応えた。
すると彼女は、その後、黙って犬の紐をゆるめ、そのまま何も言わず家の中に入っていった。


私は決して、ちょっとしたことで、人の動物の飼い方を非難したりなどしない。今回のように首吊り状態で繋がれている犬など、それもしばらく様子を見ての上だったり、ほんとに身体が紙のように薄くなるほど食事を与えられていない犬、真夏に明らかに数日間水桶が空になっているのに気づいた時など、ついにとうとう面倒を見てしまうのだ。
そして一度そうしたら、後々も続けている。だから私の負担は際限もなく重くなっていくばかりだ。
日本の地方というのは、こういう事態が、ほんとに石がころがってるようにあるのだ。
私は、こういう地平で、一人犬や猫の味方であり続けた。
この私を、ある時期、強力にひっぱられてほんのわずかの期間足を踏み入れた愛護活動というやつの中で、いくつかの愛護団体に人にいいように振り回され、一方的に誹謗された。私が、置いていかれる猫や犬の数の多さや子供がいじえにあうなどの重圧に苦しみ壊れかけていることを、誰ひとり思い遣る人などいなかったし、むしろそうなった私の不備を、自分では何もせずただあら探しをするだけの世間の人の口を信じて中傷したのだ。
その人たちが、今、どんな姿をしているか。・・・最近、その一人とある場所で再会した。ひとこと、ふたこと話して、私はその人の中にウソがいっぱいつまっているのを感じた。(この人のこの姿、顔の貧弱さは、愛護運動をウソで固めて続けてきた結果なのだ、この人の貧相さは、そのまま日本の愛護運動を顕しているのだ。)と思った。
悲しかった。虚しくもあった。でも、怒りはもう消えていた。思えば、動物愛護の運動だけではなく、愛だの平和だのを掲げる場にあるものって、こういう貧相さ、多い。