馬渡議員へのコメント

22日に会った牧原議員もそうだが、最近、国会議員の何人かの方々が、動物問題に取り組んでおられるようだ。このことはとても力強いし、動物たちにとって、真にいい方向に進むのならこんな嬉しく幸いなことはないと思っている。・・・だが・・・私は単純な人間だが、この問題においては、あまりに多くの人々から苦しめられてきて、特に同士であるはずの動物愛護に熱心な活動家らしい人からひどい目にあってきたものだから、ひどい虚無に蝕まれているんですね。何しろ、動物愛護活動だかなんだかやっていた人たちの義のなさといったら目を覆うばかりだったね。そんな人たちのやった運動って、結局は欺瞞への妥協。だから、動物問題、ひとつもいい方向にはいってない。むしろ、愚劣なセレブ化にしてしまっているから、真に慈愛の魂をもっている人を追い詰めていってる。それでもって自分はその上に立って、「センセイ」と他に呼ばせている。センセイだよ!恥ずかしい! 動物たちがなんと言うかね。ま、いいけど。
・・・とこのように傷の深い私は、馬渡さんにもただ励ましや感謝の気持ちを送るのは出来ないんですよ。ほんとのこと言うしかない。自分自身が命がけで対してきた中で感じているほんとのことをね。

馬渡さま
日本にアニマルポリスを誕生させようの賛同者の一人です。kanakoさんの、馬渡議員が動物問題に真正面から取り組んでいらっしゃるという通信を拝見し、心から喜びと感謝の気持ちを感じました。
ですが、率直に申しまして、はたしてどこまで核心からはずれない活動をされ、成果を得るまでに妥協されずに遣り通されるだろうか、という思いがございます。
私は市井の中で、孤立を怖れず、一匹一匹の猫や犬を救いともに暮らすような生活になって早や二十数年になりますが、この間、自分や家族が失ってきたもの、犠牲になってきたものの大きさと、何も問題の本質をわかろうとしない人々から受けた傷の深さは、それを表す言葉などあり得ないほどのものです。
この経緯の中で、私が重く強く感じます問題点は、大きくわけると二つあります。
一つは、誰がどんな努力をしようと、動物の命を尊ぶことの根本と、これは単に動物を慈しもうという問題ではなく、人間の教育や未来に影響する深い問題であるということを、国民の多く、特に指導的立場にいる人の意識に訴え、伝え、わかってもらわなければ、何も変わらない、ということです。
例えば、私はしばしば、自分が在住しています茨城県の動物指導センターに、市町村に、本気で、動物を捨てない、増やさない手術をする必要性を訴えて欲しい、と切望しますが、たったこの手術の奨励でさえ、心のこもってない形だけのチラシを配布するだけです。これではダメです! 月に一度は本気で、この問題一本で、市町村の長に対して、問題の重要性を訴えるシステムを作るべきです。教育の重要性を、この問題でもあてはめるべきなのです。
人間は、知らなければ知らないだけのことしかできないのです。知れば、知っただけの進歩があります。市町村の人々の頑なで無知な、『犬猫は捨てリャあいいんだ』という意識の変革に切り込まなければ、誰が何をやろうと、それはその人の自己満足になるだけです。
そのくらい、この問題は根深い。そこの認識をどうかして下さい。
動物問題が進歩をしない重要な問題点の二つ目は、はっきり申しまして、これまでの愛護活動の間違いにあります。
勿論、全てがということではありません。
現在の愛護運動の権力をもっている人たちは、結局は、一人苦しみながら真に動物を慈しみ続けてきた人たちを心無い排他をして、欺瞞に妥協をしながら、自分のステイタスを満たす地位を得てきたと見えます。
この点を洞察して、これ以上大きな過ちを犯さない活動がなされることを切に切に望んでおります。
長くなりましたが、大事な点を申し上げることが、賛意と感謝を示すことになるという信念のもと書かせていただきました。