厳罰と粛清

昨日、動物園への寄贈食品を家に持ち帰った職員のことを書いたが、その中に、『こすずるい実力者こそ罰せられて当然』と書いた。そこのところを少し詳しく書いておきたいと思う。昨日の私の書き方では、”Aの罪はBのそれに比したらたいしたことがない、だからAは許されていい”ととれる気がするからだ。そういうつもりではなかった。
会社でも何かの活動団体でも、そこの規約やルールなどが基盤にあって形が出来上がっていくものだと思うが、出来上がったところには、マイナス的な風潮も暗黙のうちに含まれていく。時間にルーズであってもここではそれは普通のこととか、私的な買い物の領収書が通るとか、瑣末なことも大事なこともだ。
そうした馴れ合いに似たものを作っていたり、それらを黙認してるのは、だいたいがそこの実力者なのではないか。彼らは、何かが起きてことが明るみになると、突然規律や姿勢を正そうという動きをしはじめ、何かを起こした人間を”厳罰”に処し、会社が清廉潔白であったことを世間に示そうとする。
これは厳罰といわず、粛清と言うのだ。そこの組織と実力者の保身のために。最近、あちこちで見える何かのことをおこした職員を解雇する動きから、こうした図が見えて仕方がない。昨日ラジオで聴いたのだが、どこかの電車の運転士が走行中にデジカメで風景を撮り、それを自分のHPに載せているのが見つかって解雇になったという。この運転士の行為は、重い叱責や批判を受けて罰せられるのは当然だが、解雇は粛清ではないかと、やはり私は思えてならない。
誰かが何かをおこした時、会社や団体の中の慣習であったことの結果であったことを認める姿勢がなくては、いつまでも粛清を繰り返していくだけではないか。
粛清というのはいろいろな形である。私はある体験を通して、狭い世界、しかも愛や人権尊重や平和などという言葉と意味が重く在るところにこそ起こりやすいと知っている。このことをここで一度書いたが消した。それをあらわにする必要を感じたときがきたら書こうと思う。