あるグループホームの発表会から ”看取り”

昨日、夫が通所しているグループホームの研究発表会があって参加した。
最初、経営者であり福祉関係の学校の講師をされているI氏に講演を依頼された。実は私は、この依頼があった日から、頭痛や胃痛がするほどであった。苦痛でたまらなかったのである。私は神経質で、ひとつでも自分の力はそれに相応しくないと思うと、それから逃げたくなるのである。それで何度も断ったが、専務をされている夫人から、「では、私と対談の形で、介護をする苦労やエピソードを話していただけませんか。」と熱く言われた。それでついに、こんな私にそこまで言っていただいては、という気持ちがおこりお引き受けしたのであった。
研究発表会は、実際にホームやディ施設や訪問介護に携わっておられる人たちが、事例をあげながら、目的や経過や結果をまとめられたもので、レポートには現場からの息づかいがこもる臨場感があり、聴いていて泣けてしまうほどであった。現場で高齢者や認知症の介護にあたる人たちの情熱は本当にこんなに温かい、という感動で胸がいっぱいにもなった。
特に、ホームで亡くなられた方の報告は、堪えても堪えても涙が溢れた。若い介護士さんの、”看取り”という重い現実に、誠実に向き合い、しっかり生死を受け止めようとされている姿勢や意識は、今や人生の最後の時刻にさしかかっている私自身の生を、あらためて考えさせてくれる深さがあった。このことにも泣けてしまった。
本当にこの発表会に出てよかった、と思った。頑固に断っていたら聴けなかった。自分自身の介護のステップがあがりそうな予感もする。本当に、皆さんに感謝した。

だが、やはり、書いておかなくてはならない”本音”がひとつある。少なくとも私が今現在、感じている本音である。昨日の皆さんに反意とするものになるとしたら、心からお詫びをしたい。
その本音とは、私は夫を最後まで自分で介護し、自分で看取りたい、ということだ。昨日、私が深く感じ入った”看取り”をされたレポートに出てくる方は、私もよく知ってる方であった。夫がそのホームで、宿泊を何度もさせてもらっているのだ。その時、いつも玄関口のベンチに腰掛けている高齢の方がいた。その方が最近お見かけしないと思っていたが、昨日のレポートで亡くなられたのだとわかった。
レポートはその方への愛情がこもり、その方はお幸せであったろうと、とそう信じるのだが、その方が常に玄関口におられたそれは、家族の迎えを待っておられたのだろうと、思えてならないのだった。その方は、亡くなる前頃が食事をとられず、介護士さんが口に入れると、食べ物を介護士さんの顔に吐きつけたりされたという。その行為を、レポートの中で、
その人が決めた生き方、その人らしさ、と書かれていて、私はそのように理解をされたことに共感をし感銘を受けた。だが、その行為の底流に、ついに家族は自分を捨てたまま、自分をここで終わらせようとしている、という絶望があったのではないか、と私には感じるものがあった。その思いは重く辛く、いたたまれないものがあった。

この私が感じた思いと、それをここに書くことは、もしかしたら、ホームで家族以上の親身さをもって介護をされている方たちを傷つけるものかも知れない。そのことを申し訳なく思います。