続『野良猫に餌をやるな』看板の問題 ”放生の思想”

・りとろぐ もんくあっか通信 №29 からの転載です。

この通信の前号で、『野良猫に餌をやるな!』看板にまつわることを書きましたが、この件については、もっと書いておきたいことがありました。が、視点をどこに定めるか迷っているうちに時間が経ってしまいました。そんな中の昨日、私のサイトの掲示板に、『Decapod Journal』(十脚目通信)http://decapod.or.tv/『同じ星の小さな生命を愛する気持ち 次代に繋げたい・・・』のサイトを運営されている児童文学作家のプアマリナさんから、『さすが微笑みの国』という書き込みがあって、その中に、「これだ!」という感興がわき立った表現がありました。
『放生の思想』です。
まずその内容をご紹介します。

ーーーーーーーーここからプアマリナさんの文ーーーーーーーーーーーーーーーーー

先日の素敵な宇宙船地球号はご覧になりましたか? あの番組は明暗の明部しか触れないのであれですが、先日のタイの野良犬のは良かったです。

タイは仏教国。放生の思想の強い国なので野良犬が増えて、バンコクでも狂犬病他の問題が持ち上がり、結果、毎年何万頭かを処分しないといけなくなったそうです。一時期。
そこで国王の鶴の一声。「野良犬を一匹たりとも殺してはならない」というお触れ(?)が出て、政府のお金で犬を殺さなくて済むようにしたそうです。野良犬を捕獲し、避妊手術を施し、地元の住民を説得して元の場所に戻すのだそうです。(当然のことですが、ワクチン接種も行います。)
噛みぐせの付いた犬や、地元の住民に拒否された犬は施設で放し飼いにされるのですが、時々軍関係の人が見に来て、賢そうな犬や元気な犬を軍用犬候補として引き取っていくのです。
その中の一匹(雑種)が、昨年の津波の際に人命救助で大活躍し、勲章を貰ったという内容でした。
私が特に印象深く思ったのは、タイの人々の暮らしに、普通に野良犬が溶け込んでいること。毎日たくさんの犬に餌をやるおばさんがいたり、市場の中を犬がウロウロしていて、市を出している人にもそれぞれ“お気に入りの犬”がいるらしく、犬がそこへおねだりに行くんですよ。毎日。
タイの人たちって、心が豊かなのですね。素晴らしいです。
経済的に豊かになっても、どんどん心が貧しくなっていく我国の人々に、タイの人の爪の垢でも煎じてやりたいです(^_^;)

Windows Media Player版の予告編(もう終わってるのに?)が、以下からご覧になれますよ。
http://www.tv-asahi.co.jp/earth/midokoro/2005/20051225/index.html
予告編で「野良犬なんて早く捕まえてよ!」と言っているおばさんは、確か本編では説得されてOKしてた人じゃないかな(^_^;)

ーーーーーーーーーーここまでーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いかがですか? タイの国の様子を拝見していくうちに、胸がじわ〜っと心地のよい温かさに満たされませんか?
私は、他の何もいらない、という気持ちになりました。
プアマリナさん、さすがですね。『野良猫に餌をやるな』の核をこのように掬い上げ、より深い意味を加味して訴えることが出来ます。

思えば、二十数年前から、私の家が、猫を捨てにくる人があとを絶たずという状態になり、やがて犬も捨てに来られるようになり、世話そのものも大変でしたが、それ以外の周りの人々との軋轢は、自分が壊れていきそうなほど辛く感じるものでした。

私は対応に苦慮してしばしば怒りや不快をあらわにしたりしましたから、やがて誤解も生じ、それが偏見になり、経済の破綻もあり、まことにまことにまことにまことに苦しく、どんどんどんどんと世間の隅に追い詰められるような事態になったのでした。(このことは毎回書いてしつこいですね。すみません。もしかしたら、はじめて読む人もいるのではないかと思っちゃったりするものですから。)
何より辛く思ったのは、人の中には、生き物の生命や心など、壊れた玩具ほどにも感じない人がいること、それがかなり多いということでした。

こうした時期に、私がよく人や行政に訴えていたのは、『糞をするからとか、鳴いてうるさいから動物を排除、規制しようというのではなく、動物の習性と人間のそれは当然違うのだから、人間はそれを理解して、我慢しよう、許そう、という姿勢も必要ではないでしょうか。』ということでした。

この考えと感じ方は今も変わりません。動物が起こしたことを問題とすることの多くは、人間の方の寛容さ、理解力、想像力などが欠如していることによるものと私は考えています。”動物はこういうものだ”と、動物の習性を理解して許せば、何の問題にもならないことはあるのです。

そう、プアマリナさんの言われる、”放生の思想”です。勿論、それではすまないこともあるでしょう。動物は場合によって危険になることもあります。そうした基本的な知識をきちんと持ち、注意をすることは大事です。私が言いたいのは、その注意をする、ということが、『処分・駆除』という方向にいくのは間違っている、ということです。そうした、”人間の都合中心の思想”は、何を人間にもたらせたのでしょうか?
そのことを、私は問いたいです。

寒い時期になると、特に感じます。この寒さの中、親やきょうだいと離され、食べ物もなく、安心して眠る場所もない猫や犬の哀しみと寂しさを。身が切られるように感じます。そうした思いのまま、見つけたそういう動物に、そおっと餌をもっていくことはそんなに悪いことなのでしょうか?

餌をやる責任として、捕まえられる子は家の飼い猫にしています。どうしても逃げる子はそのまま野良として大きくなりますが、出来るだけの努力をして慣れさせ、それで捕まえることが出来たら不妊手術を施し、またその子の生き場所に戻してやります。・・・この時、そのまま、自分の家に入れて飼えばいいではないか、と言われますか? この時はもう、その子は成長しています。成長した猫や犬を、家に入れるのは至難中の至難です。もはや家に落ち着くことはできない上に、すでに家にいる子らとうまくいかないのです。それでも何匹かはそうしてきました。そのたびに、私の苦労は並大抵のことではありませんでしたよ。ぎりぎりまでそうしてきたのです。それは今も続いています。

私は、生き物が嫌いな人がいてもいい、何が好きで何が嫌いか、それを認め合うのは、その人その人にとって、本当に大切なことです。
私は、場合により、生き物の生命を守るために、激しい言動に至ったことがありますが、一度も、『動物が嫌いな人は悪い』とか、『動物が好きな人は正しい』などは思ったこともなく言ったこともありません。
ただ、切に訴えるのは、”生き物が生きることを、自分の好き、嫌い関係なく、認めましょう”ということです。

このたび、『家なき猫に愛の手を』キャンペーンを企画された、『日本にアニマルポリスを誕生させよう!』さんhttp://www.animalpolice.net/と、『Dear こげんた』さんhttp://www.tolahouse.com/sos/に、町の片隅で、猫たちや犬たちの生きる場の確保に懸命に努力している者の一人として、心から共感と感謝の意を表します。