仏法の敵

今回は、信長(舘ひろし)の命令で『比叡山 延暦寺』を焼き討ちにする場面が中心となっている。
最澄がおこした天台宗の総本山比叡山延暦寺は、ひとつのお寺を指すのではなく、比叡山という山全体を言う。だから、ひとつの町のような生活の営み、形態があり、そこでは女性や子供、幼児、乳児なども含む多くの家族があった。信長は、そうした人たちも全員殺せ、という命令を下したのである。
一時は互いに利用する上で手をくんでいた足利義昭三谷幸喜)との悪関係もからみ、比叡山の僧たちの勢力をよく思わぬ信長は、一部の僧たちの悪行を征伐するという名目で皆殺しをはかった、とこのドラマは進む。
この命令を信長が下した時、明智光秀坂東三津五郎)は信長に異をとなえる。仏法にそむいてはならないという知の高い光秀の言葉に信長は激怒する。秀吉や一豊をはじめ他の家臣たちは信長の激しさに恐れおののき何も言わない。(言えない)


襲撃の場面では、光秀は自分に命乞いをする老僧をも斬る。一箇所に集められた女子供、乳児を前に、苦渋の表情で心を鬼にして殺そうとする一豊(上川隆也)や中村一氏(田村淳)、堀尾吉晴生瀬勝久)たち。が、そこに駆けつけた秀吉(柄本明)が、一豊たちを別のところに行かせ、女たちを逃がす。この後、信長は光秀だけに五万石の城持ち大名という褒章を与える。愕然とする秀吉。秀吉は、一豊たちに、「自分の心が動く通りにすればいいのだ!」と言う。・・・ここまでの信長を中心にしたそれぞれの心理と行動と言葉は、この時代の動き(社会)と人間関係の深い部分を表して興味深い。
特に信長の”深み”の入り口が見えて考えさせられる。比叡山の焼き討ちは、一般的には、僧たちの勢力を怖れて、と言われているが、果たしてそれだけだろうか。天才は凡才にはわからぬ洞察性をもってしばしば己を”神”とするものだ。信長が仏法をも怖れず仏の山を残虐非道に血で汚したのは本当のところなんだったのだろう。


表面に出ている激しさを赤い炎に例えるなら、内面に秘めた激しさは青い炎、と表現されることがあるが、その例えで言うと、舘ひろしの信長は、赤く燃える外に出ている炎の烈しさより、内面の青い炎の烈しさを感じさせるものがあっていい。舘ひろしさんて、すごくストイックな役者さんなのだろうか。私は”石原軍団”に関心がもてない派なので、これまで舘ひろしのドラマを観たことがなかった。知らなかった。


さて、千代(仲間由紀恵)と一豊だが、千代はこれまでの回で常に、「戦いはいや、平和が大事・・・」と言ってきている。一豊の功名を求める気持ちを認めるのも、常にそれは未来の平和につながっているはずであるからだ・・・のはずである。だが今回の殺戮は、どんな理由をつけても、平和への願いにつながるはずはない。ドラマでは、一豊は女子供を切ろうとはするが秀吉に救われ斬らない展開になっていたが、実際は信長の命令に従って殺したはずである。
そこで演出は(多分原作も)、一豊の尼になっている母(佐久間良子)に言わせている。母は千代を呼んで言うのだ。「一豊の”業”をともに背負って欲しい。戦の世に生まれた女のさだめである。」
・・・この言葉は、戦を肯定しているのではなく、『現実を受け止めた土台の上で、愛を持って生きる、それこそが、真の平和への力となるのだ』ということだろう。
この理解をもって、今後の千代(仲間由紀恵)と一豊(上川隆也)の演技をより楽しみにして見守りたいと思う。
また竹中半兵衛筒井道隆)に対してもそうである。