山口母子殺人事件裁判

つい今、古館さんのニュースで、七年前の山口の母子殺人事件の被告の弁護人の主張が放送されていて愕然とした。


私はこの弁護士Yさんを知っている。十数年前になるが、私の友人が、歩道橋に反原発のステッカーを何枚か貼って逮捕され、後彼女が不当逮捕と、表現の自由をもって電力会社を訴え裁判になった。その時に、弁護士のYさんが随分友人を力づけて下さったのだ。その後、Yさんが熱意をもって死刑廃止に取り組まれていると知り、講演を聴きに行ったりした。


最近では、ある企業がからんだ問題でYさんが逮捕をされた時、ニュースで知り、以後支援をした。支援と言ってもわずかのカンパを送り、問題や裁判の経過を書いた通信を送ってもらい、私なりに理解をする努力をしただけなのだけど。


これだけの交流であるが、そこで私なりのYさんに対しての認識は、正義感があつく、弱者を決して捨てない、友愛心に富む人である。人柄的には懐の深い大らかな温かい人と理解している。そして私は二度直接お会いしているのだが、思い起こすYさんの表情はいかにも大らかな笑顔である。


今日、何年ぶりかでテレビの画面で見たYさんであったのだが、私は、山口母子殺人事件について主張される様子を、信じられない思いで見つめていた。
『被告は殺意がなく、不幸にして手が喉に入ってしまった結果のことで、だから殺人事件とも言えないものだ。赤ちゃんをひもで首をしめたとされているのは、泣き止まそうとして蝶ちょ結びをした。』


Yさん、失望しましたよ。私は死刑制度というものは見直さなくてはならないものだと思っていますし、何の事件であれ、犯人に人権があることもその通りだと思っていますが、それらは、罪を公正に認め、償うことを前提にした上でのことです。
罪を正当化、あるいは核心をごまかし真実を捻じ曲げることが、人権の尊重になるとはとうてい思えません。


勿論、冤罪をかけられた事件や、真実をゆがめた判決はあると思いますし、報道を通してだけでも、そう感じたものも多くあります。そういう場合、正義の闘いを挑むことは当然と思いますし、Yさんはこれまで幾度もそうされてきたのだと信じます。


でも、今回、私は、弁護側こそ、ねじまげようとしている、と感じてなりませんでした。私は事件のわずかの断片も知りません。ただ、知っているのは、若い母親と赤ちゃんが残酷な方法で殺された、ということだけです。そこに、例え、本当に首に手が入った、それで死んでしまった、のであったとしても、それを持って、「殺人事件とも言えない。」という主張にはおぞましさを覚えました。


『被告の人権』ということに焦点をあてても、私は、殺された母親と赤ちゃんへの痛みもないその主張こそ、なんら人権の尊重などしていないと言い切ります。


私は想像します。もし、私が、誰かを殺したとしたら、そんなつもりではなかったのにそうなってしまったとしたとしたら、どうしてもらったら、自分を尊重されたと感じるだろうか、と。
それは、自分の罪を公正に裁いてもらいたい、ということに尽きます。公正というのは、策をもって減刑されることではなく、罪に至る”真実”をわかってもらうこと。自分を追い詰めた、法では罪にならない者の罪を明るみにしてもらいたいこと。その上で、自分の犯した罪を、必要なら自分の死とひきかえに償いたい。それが、私の人権が尊重されたということです。


山口の被告にも、こうしてしまった深い”真実”があるに違いないでしょう。でもそれは、殺された母親と赤ちゃんが背負わされることではないはずです。


死刑という制度への疑問、殺人犯にも人権があるという主張、それらは真に公正に扱われてはじめて力をもつものではないのですか。あなたの主張には、私はそれを感じませんでした。


補足:私がここに書いたことは、被告が死刑になればいい、ということではありません。判決に関しては、私などがふれることなど何もありません。


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