今日のプチ日記

ここのところ、怒涛のように日記を書いている。憂鬱な日が続いていたので、それをまぎらす行為だったかも。
今日はのんびりしよう。陽も出てきたし、お弁当を持って、夫と連れ立って鬼怒川の土手を散策するかな。
菜の花が綺麗。まるで、この世は輝いてるよ、優しさに満ちているよ、思い悩むことなど何もないよ、と知らせてくれてるよう。
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お天気がくずれてきて、結局家でごろごろすることになり(私はこの後犬の散歩に付き合わなくてはならないので、ごろごろなぞしませんが)、そこでプチ日記の追加。

騒音おばさん
実刑判決が出たとか。近隣の人が苦痛を覚えるほど大声で怒鳴り散らしたり、音楽を最大に流し続けたというこの女性のニュースが出た時から、ずううううううっと気になっていた。
こういう言動って、誰かがこの人をわかってあげればおさまることではないのか? と。判決が出たニュースで、この人はお嬢さんを二人亡くされていると知った。この人をしっかり支えて慰めてあげる人はいなかったの? 周りの人たちがヒソヒソと裏表のある視線を注がなかったか? 


私は近隣の付き合いっていうのは、周りを圧する力のある人が、どういう性格の人であるかでその地域の雰囲気が決まることが多いのを知っているので、つい上のようなことを考えてしまう。だって、人間て、例え自分を叱る厳しい言葉を言われても、相手の人がほんとに親身に自分に向かい合って、わかろうとしてくれてる、と感じれば、気持ちは落ち着いていられるもんよ。反対に、どんなに言葉が優しくても、その人の唇から二枚の舌が出てるのを見てしまったら、苦しみが深い場合心が寂しさで荒れてくる。


私は、私を理解してくれる友人がたくさんいるので、いつもノーテンキなままでいられるけど、それでも、今の土地に越してきてからはそれはそれは苦しかった。猫や犬を、私がペットにしたくて集めているのではなく、家の前に置いていかれるのを見ると、可哀想でならず飼ってしまうけど、もうこれ以上は飼う力がない、とどんなに訴えお願いしても、お孫さんが目の開かない子猫を数匹拾ってきた時など、私のところに連れて行かせるし、困り果てていると、「いらないなら、捨てて下さい。」と平然と言うし、その考えと言い方に私が怒ると、いじめられた、と言いふらすし、あげく、私の家で生んだのを捨てているに違いない、ああやって、何かお金になるに違いない、etcetcetc・・・そりゃあもお私の想像力では夢にも思わないことを決定的に言いふらされる。
ひどいもんです。こんな状態の中で、おかしくならないように踏ん張るのは大変でした。・・・『騒音おばさん』と言われている女性を画面でみるたびに、「何が辛かったんですか、耐え続けていたんでしょ。」としみじみ話しかけたくなる。きっと、ある時期、ぷっつりとあの人の常識性の糸が切れたんじゃないかな。糸が切れる前も、切れた後も、辛かっただろうな。


耐えて耐えて、理性と周りの人たちへの誠意を持ち続けていると、いつの間にかそれなりにわかってもらえるようになり、それなりの付き合いができるようになる。時間はかかるし、そこで費やす精神力は大分痛むけど、それでも平安はやってくる。そこから、新たな自分の力が芽吹いてくる。・・・疎外感に苦しい人辛い人、耐えるところに必ず天の救いの手が降りる。私が言うのだから間違いないよ。(ちょっとエラソーな言い方かな? でも、ほんと。)


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■新庄くんの引退宣言
これからもがんばれよ! 君は素敵だ。


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