誰かを悪人に仕立てなくては気がすまぬ 私の善人根性

昨日、昨年亡くなられた方の法事があってお寺に行ったのだが、ご本堂の入り口にかかった額に、このような言葉が書いてあった。


『誰かを悪人に仕立てなくては気がすまぬ 私の善人根性』


そこは親鸞聖人の教えの寺のようだから、親鸞の言葉だろうか、ご住職の法話の中の言葉だろうか、など思いながら感じ入っていた。


どのように感じ入ったかと言うと、私は人がどのように生きておられても、自分に故意に何かをされない限り、外からみて、中傷や誹謗はおろかちょっとした噂話にすることはない。誰かの言葉尻をとらえてメールでひそひそ流し合うなど露もしない。思いもしない。
だが、私自身の生き方や言動を、真意や事実と違うように中傷された、と知ると、そのことに傷つき、自閉的になることがある。つまり、私自身を悪人に仕立て上げてくる人の善人根性を許さなくなるのだ。・・・・・でも昨日、『誰かを悪人に仕立てなくては気がすまぬ 私の善人根性』の額をしみじみ見てわかったのである。そう、自分の善人根性をだ。


中傷や誹謗を受けた、と感じたら、その時に、相手に、「それはどういう意味ですか。私が何をして、そのように言われるのですか。」と訊ねればいい。そうした時、相手がごましたり、恫喝してきたり、誰かまた別の人の仕業だと言うなら、それらを許しがたく感じたら、そこできっぱりと怒ればいい。「あなたこそ他者を陥れるための嘘をつくウソツキだ。あなたのヒューマニズムなどインチキだと感じる。」と。


私はそれをせず、いえ、そうできず、悶々として、自分が貶められたと苦しみ続け、折があるごとに、私を貶めた強者、その強者にすりよる人々を蔑すみ不信してきたのだ。・・・私はいつの間にか、人を悪人に仕立てる善人根性の欺瞞に堕ちていたのだ。


寺には、こんな言葉もあった。『”私だけ我慢すればよい”という慢心』
まるで私のために書かれたような言葉である。


少しづつだが、自分に必要なことがわかってきた私は、これから、人生を楽しむことが出来るような気がする。現実は重荷に身動きがとれない実感にあえいでいるが、きっと真実楽しみを知る日が来る。そう信じよう。


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