坂東真砂子さん 子猫を日常的に殺すと言う③

坂東さんの子猫犬殺しの件で、みけさんから貴重なコメントを何回かいただきました。特に昨夜いただいたご意見には、私個人にとっても社会的にも深く考えさせられるものがあると感じ、自分の考えや生き方を再確認する上でも、きちんとレスを書きたいと思い、コメント欄からこの枠に持ってきました。
その前のやりとりは、
坂東真砂子さん 子猫を日常的に殺すと言う』と『坂東真砂子さん 子猫を日常的に殺すと言う②』のコメント欄にあります。

ーーーーーーーーみけさんのコメント ここからーーーーーーーーーーー

そうですね。避妊や責任の問題ではなく、『強者が抵抗もできない生命を奪う』というのが問題のはずですが…。日本人は権威に弱い傾向があるから、「直木賞作家で立派な人の言う事だから何か深い意味があるんだろう」と思うのだろうか?そういう方でも、「生まれるいなや殺す」という事はできないはずなんだけど…。

 「なぜ他者を殺してはいけないのか」と子供に聞かれた時に、「自分が殺されたらどうか、周りもどれ程悲しむか」と答えたとして、「俺は殺されるのがイヤじゃない。悲しむ家族や友達もいないよ」と反論されてしまったら、どう答えればいいでしょうか。こうした問いや反論が出る心理、社会病理とは何だろうとも考えてしまいます。

 欠点のない人間がいないように、人間の心には必ず悪の部分があります。そして、自己中心的に、自分の思うままに生きるのは楽で、人間には「自分勝手に生きたい」という願望もあると思います。けれどそれがエスカレートすると、最後には「命を奪ってもいい」に行き着くのではないでしょうか。世の中には「殺してみたかった」、「面白くて殺した」という人間もかなりの割合で存在しています。こうした人物から社会を守る術をまだ私達はほとんど持っていないし、人間の『悪』についての研究も進んでいるとはいえません。悪という言葉が適切でないのならば、『罪悪感の欠如』に置き換える事もできると思います。そして、自己愛が強ければ強い程、内省ができない、自己の内面に光を当てる事ができないのではないでしょうか。

 私は自己批判のできない人間は「邪悪」といってもよいと思います。なぜならその意識は常に自己完結しており、他者を認めないエゴイズムが、そこに存在しているからです。もしそうした自己愛の極端に強い人間がが他者から批判された場合、<自分は正しいのに攻撃されている>という被害妄想から憎悪が生まれ、それが弱者への虐待、殺害へとつながっていくのではないでしょうか。

 自己の内面を見つめる事を拒否するなら他者を、社会を責めるしかない。それが最終的には生命の破壊につながる…どうすればいいのかと考えれば暗澹たる気持ちになるしかありませんが、こうした野蛮な部分を本能で抑える事ができない人間がいる場合は、やはり法をかける以外に、社会を成立・維持する事はできないと思います。』 (2006/08/27 01:23)

ーーーーーーーーーマオの返信 ここからーーーーーーーーーーー
みけさん、こんにちは。
関東地方は今日は大分涼しいです。犬たちがのうのうとくつろいでいるのでほっとします。

今回の坂東さんの件で、私が一番嫌悪したのは、生まれたばかりの子猫を崖下に躊躇なく投げ捨てる(エッセイから躊躇なく投げ捨てた、と感じました)残酷さ、母猫が身も心も痛み嘆き悲しんだであろうことへの想像力の欠如、慈愛心の酷薄さ、非情さは勿論ですが、それ以上に、自分の行為を、『生きるとはなにか』『死生観』という哲学に見せようとしたそのインキチさに対してです。これは本当に卑劣でおぞましい。そのつもりではなく、本当に哲学として考えられた結果のあのエッセイとしたら、インチキなのではなく、ウスッペラと言うべきでしょうが。
インチキ、ウスッペラどちらにしても、これらの一連の行為が、”直木賞作家”という権威に守られて、容認されていく傾向があることにも、私は反発と嫌悪を感じました。こんな社会か、という落胆と悲しみもある。


「なぜ他者を殺してはいけないのか」についてですが、みけさんが、混沌とされながら自らに問い答えを探っていらっしゃる姿勢に強く共感します。
私個人は、人には答えとして出せるものはないのですが、自分自身について言えば、このことの迷いはないんです。
「なぜ他者を殺してはいけないのか」という問いすら自分に投げたことはないくらい迷いがない。
問われて答えなくてはならないなら、私の体験をお話するしかないです。
私は、一匹の子猫を”安楽死”させたことがあります。生後二ヶ月ほどだっただろうその子猫は、私たち家族が、埼玉県の北本市二ツ家という地区に引っ越したばかりのある日に、同じ地区の主婦の方が、「拾ったんだけど、うちは子供がいて飼えないから。」という身勝手極まる理由で我が家に連れてきた子でした。その子は、とても気が強く、他の猫たちとうまくいかないので、一階の客室にしようとしていた和室に一匹だけ入れておきました。
春休みのことで、中一と小五の息子もいた時でした。
台所で昼食の準備をしていると、猫の悲鳴が響きました。当時、我が家には六匹の成猫がいて、みんな自由にしていましたから(この六匹の猫をのびのびさせたいがために、千葉市内のマンション生活から、前は市の浄化槽、左は広大な貯水池、右手は二千坪を擁した牛牧場と雑木林が広がっている地を選んで引越ししたのでした。)、時々そこの地元のゲスト猫たちと喧嘩をして大騒ぎな声をたてることがありましたから、この時の悲鳴もそうだと思い、私はたいして気にしませんでした。子猫のいる和室は、窓をきちんと閉めていましたから、ここに悲劇がおこるなど何も考えなかったのです。


でも、和室の窓を開けて押し入った大きな茶トラの猫が子猫を襲っていたのです。気づいた時、座敷は三箇所に血溜まりができ、子猫は、顔の右面と左面が大きくずれているほどの傷を受け、片側の目玉は床についているぐらい飛び出ていました。
私はすぐにバスタオルで子猫をくるみ、車を走らせ、電話帳で探した動物病院に連れて行きました。
厚地のバスタオルがぐっしょりとなるほどの出血で、もはや子猫は瀕死であることが素人の私にもわかりました。
獣医師は、即、安楽死をすすめました。私もそうするのがこの子猫に一番いいのだ、と決意しました。
でも、自分の胸に抱いて殺してやりたかった。だから、ガスで口を覆うのは私がしました。
私が胸にしっかり抱き、無残な顔のその子猫の口にガスの吸入口をあてた時、もはや意識はないと思っていた、医師もそう言っていた、その子が、身体をよじり一声発したのです。
「生きたいよーっ!」
確かに私にはそう聞こえました。今でもその声は内なる耳に残っています。顔の左右が大きくずれ、片方の目玉がだらんと飛び出て、口の中からまだ血が流れているその子のその声は、私の臓腑をえぐりました。
でも、私はその子が完全に意識をうしない、身体中がだらりとなるまで抱きしめてガスを口にあてていました。最後は医師がその子の心臓に注射をして息を絶えさせました。


私は今でも、あの決定は間違ってなかったと信じています。でもそれとともに、「殺してはいけない。」「生まれたものは生きるのが、”普通なのだ”。」「もう二度と安楽死など決意しない。たとえどんな姿になっても生きよと願い、祈り、そのための努力をする。」と思い、この思いは、私の絶対的なものになっています。
こう書くと、「では、お前が食べた、今も食べているだろう肉は、動物を殺して得ているものだ。」と、欺瞞、偽善だと批判や嘲笑の意をこめて言う人がいるでしょう。
その人には、「ごめんなさい。」と頭を下げるしかありません。これは逃げているのではなく、私の愚鈍を表していることです。「殺してはいけない。」という願い、祈りは、確かなものとして言葉にできる時が来るのを待ちたいです。いつか、私のような不徳の人間にも、天がこの答えを示してくれるだろう、と。
以上が、私の「殺してはいけない。」です。これしか答える力はありません。


『法』の問題ですが、坂東さんの件に関わらず、私は法や制度に頼ることに、つまづく気持ちがあるんです。
『法』『制度』は必要です。それの必要な人のために、絶対必要でしょう。
・・・この認識を前提にして言うのですが、”法や制度は、細心の注意と、公正さを己に律していなければ、むしろ悪しき立場のものを救い、救うべき人をどん底に落とす危険性がある”、いう気持ちを持っているのです。
わかりやすく言うために、自分のことをまた述べますが、私は実は、犬のことで法律を犯しています。毎年次々と置いていかれる犬たちを救っているうちに、親の病気と療養、夫の病気と療養なども重なり、かなり余裕があった経済も破綻をはじめ、現在、経済的な事情で、登録を怠っているのです。
私を、「あいつを潰してやれ。」と思う人がいたら、この違反をつけば、世間的に私を容易に追っ払うことができます。法的には、その人たちは正しい。
私の側からすれば、捨てた人、置いていく人たちにも法的にも罪があるわけですが、その証拠は見つかることもないし、また私は法的にその人たちをやっつけようという考えがおこらないんです。実際、いつも責められて黙って泣いて耐えてきました。(本気で怒ると凄いパワーを出して負けない自信はあるんですけどね。笑)


坂東さんの問題については、私は正直、どうしたらいいかわからないです。法的に制裁を加える動きに加わる、あるいはそう主張するか? と自分に訊いても、「うーん、殺された猫たちや、痛みを耐えてきた母猫はどうしたいのかな・・・。」と思うだけなんです。
本当に、自分が猫だったらどうしたいだろう?・・・一番は、この人が、殺される自分たちや、母親の痛みに覚醒して悔い改めて、世事的な意味の優しさではない、もっと深い優しさの人になってほしい、と願うかな。
・・・そうなるために法に問う、ということも言えると思うのですが・・・法と法を駆使する人間は別の裏切りもするからなぁ・・・。


みけさん、結局混沌としたレスになってしまってごめんなさい。
こんな答えしか出せない私は、結局は無能な人間なのだと思います。

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子猫を安楽死をさせた経緯は、『しろじょうさんの八月』という作品に書いています。
出版元は、愛媛県松山市の『創風社出版』です。
http://www.soufusha.jp/
私も手元にもありますので、私に申し込んでいただけば差し上げます。
ここにメールをして下さい。
muku1995_charlir1997_taro2001◇yahoo.co.jp
恐れ入りますが、◇を@にかえて送信して下さい。