みけさんのコメントより/坂東真砂子さん 子猫を日常的に殺すと言う④

みけさん、おはようございます。ここ数日認知症の夫の徘徊が続き疲労困憊でしたが、昨夜はすんなり眠ってくれて、私もこの機を逃すものかと早々と休み、今朝は久々に気分体力快調です♪
みけさん、お忙しい中、実のこもったコメントを本当にありがとうございます。コメント欄に返信を書こうとしたのですが、長くなりそうなので、また新記事としてこの枠に持ってきました。

ーーーーーー^みけさんのコメント ここからーーーーーーーーーーーーーー

みけ 『 こんばんわ、遅くなって申し訳ありません。じっくり読ませていただきました。『しろじょうさんの八月』も取り寄せを頼みました。どうもありがとうございます。

 私もひき逃げされた子猫を病院に連れて行って、結局5日後に亡くなってしまったという事が今年の2月にありました。安楽死は、飼っていた子が、ガンになり、手術をしたけれど転移し、体力的にもこれ以上の手術は無理と言われました。何もできずに死を待つしかないと…。少しでも一緒にいたかったけど、体調は目に見えて悪くなっていきました。医師に診てもらう回数も増え、ガンが肺を圧迫し、家では駄目な状態になりました。何もする事のできない自分を責めたけど、本当に何もできない…。

 命の持つ重みについては理屈では語れない、語ってはいけないと思うのです。そして酸素室にいる私の子は、とても苦しんでいました。こうした処置をしていても、もう苦しくて、それが続いたまま死を迎える、と医師からは言われ、そして安楽死をすすめられました。その辛さ、その決断をする「重さ」…。

 その重み、悲しみを一切感じる事なく、弱い命を奪ったのが坂東さんです。しかもそれを「生きるとは何か」という理屈で糊塗する醜さ。多くの方はマオさんの言っている事がわかると思います。でもわからない人間もいる。その時、社会を構成する私達には何ができるか。「こいつに同じ事をやってやれ」という記事やコメントも見ました。それを心情としては理解できても、この人と同じところまで落ちていいだろうか。魂を持つ者としての格調はどうなのか。

 私は個人的に「訴えたいけどどうすればいいのか」という相談を受ける事があります。その時は、「低劣な人間がばかな事をしているだけなら無視したほうがいい。そうしたレベルの人間を告訴してもお金や時間を使って下らないでしょう」と答えています。おかしな人がいる時、それと同レベルの事をやったり、まともに相手をすれば、自分も同じレベルに落ちてしまうのが社会というものだと思います。

 でも、もし相手が同等かそれ以上で、明確な不正を行っているという場合は社会正義を守るために立ち上がってほしいのです。清廉潔白に生きる事が人間の尊厳を守る事であり、また、私達の住む社会を安全にする為に不可欠な事だからです。そして、戦う時にはやはり法的に戦うのが効果的だと思います。

 「法律が何をしてくれる」という声もありますが、法は私達の生活、そして苦境に陥った時に、その「範囲内では」守ってくれるもので、そしてそれは社会の声によって大きく変える事のできるものなのです。

 99年に世田谷区の東名高速で飲酒運転により2児が亡くなるという死亡事故を契機に01年に最高刑が20年の「危険運転致死傷罪」が新設されました。これは子供を失ったご両親、周囲のなみなみならぬ努力、そして社会の声がなしえた事です。少年法の変化にも同じ事が言えると思います。だから「これはおかしい」と思ったらHPやブログでも、あるいは電話、投書などでも声をあげて頂きたいと思うのです。

 さっき『Big Bang 仔猫殺しに思う・自らの両手を血の染めて得られるものなどない』というブログを読みました。他の作家の方が短絡的な個人的憎悪(弱い命を奪って怒りを感じるのは女だけ、など、なぜか天皇の事なども書いてあり大半は意味不明ですが非常に感情的)でものを書いている事も知りましたが、この記事では客観的かつ正当性のある事が書かれていると思いました。

 法律の話はつまらなくて申し訳ないのですが、人間が作ったものが人間を裁くのは確かに非常に難しい事で、葛藤が常にあり、道徳的におかしいというケースも多いといって問題はないと思います。それでも、法律が無くては社会は機能しません。法律は社会に暮らす人々の生活を安定させるという前提に存在し、だからこそ時代や、ニーズによって変化していくものです。福岡の飲酒運転3児死亡事故でも、私は新設された危険運転致死傷罪が適用されると思います。このように社会を守っている法律とは市民が作っていくものなのです。
(2006/08/29 01:21)

ーーーーーーーマオの返信 ここからーーーーーーーーーー

>『しろじょうさんの八月』も取り寄せを頼みました。

わざわざ取り寄せを依頼してして下さったのですか。ありがとうございます!
この作品は、我が家に猫がどんどん捨てに来られる経緯や、そこに生じるご近所とのトラブル、その中であがく私の思いなどを小説にしたものです。私は猫を保健所に渡したり飢えて親を求める子を放っておくこともできず、どうしていいかわからないまま自分で抱えていくばかりだったのですが、ご近所に迷惑はかけたくないという思いも強く、息子が猫のことでいじめにもあい、夫も嫌な顔をしますし、そうした家族への罪悪感もあり、もろもろの重圧で壊れかけていました。必死でどうしたらいいか、道を探り、この作品もその救いを求める心と手が為したものでした。だからどうしても主観的な書き方になり、そういう意味で不出来な作品であろうと思います。お読みいただけましたら本当に嬉しいです。

>何もする事のできない自分を責めたけど、本当に何もできない…。

私もこのみけさんの思いはよく感じます。本当に何もできませんね。残念だけど・・・。

>「こいつに同じ事をやってやれ」という記事やコメントも見ました。それを心情としては理解できても、この人と同じところまで落ちていいだろうか。

私もどんなに辛くても、報復という手段をとるのはしたくないです。私は猫や犬の捨て場にされ、数が増えるごとに世話が行き届かなくなり、経済も破綻していき、見るからに奇異な暮らしぶりになってしまいましたから、どれだけ人にバカにされ、あからさまに本当にいじめられたこともあり、外に出た猫が殺害されたこと、数え上げたらこの枠が永遠に続きそうなほどあります。酷いデマを流され、まさに人権侵害、名誉毀損にあたることもされました。(ingですが)辛かったし、寂しかったし、苦しかった。何度もこんなインチキな世界はもういい、とも思いました。怒りのあまり、相手の方や地区、自治体、行政に、激しい言葉を出し、文を送ったこともあります。
でも、仕返しをしようとは一度も思わなかったです。本当なんですよ。もし思ったとしても、その方法がわからなかったでしょう。私は本当に社会性に疎く頭が悪いのだと自覚しています。本当にそうなのです。


こんな私は、次第に猫たちから学んでいきました。
猫たちの”赦し”です。うまく書けませんが、”猫のたたり”とか言う人がいますが、猫は誰にもたたりません。犬も他の生き物も。人を呪い、たたり、仕返しをしようと思うのは人間だけです。
本当に、生き物は、その時、理不尽をされれば怒り、その怒りは人間を死に至らしめるほどの力になりますが、以後、恨みや報復をしようとすることはありません。
このことは、二十数年間、猫たち犬たちと、子連れ狼のように生きてきた私の魂が感じることです。
人間は、”赦しの時代がきている”と、二十年以上前に私はある冊子に書いたことがありますが、それは生活の中の痛みから感じることで、今は、この思想は私の核になっています。

>社会を守っている法律とは市民が作っていくものなのです

坂東さんの猫殺しを機にここにコメントを書きに来て下さったみけさんが、このメッセージを何度も送って下さったことを本当に感謝しています。
世捨て人のようになっている私に、それこそ、「生きよ!」と言って下さっている気持ちすらします。
本当にありがとうございます。


聖書が説く、『愛』でさえ、それを持って他者を抑圧していく人がいる。
児童文学や教育の場で尊いとされる、『人を大事に』『人権を尊重しよう』『平和』などなどという言葉を、まるで自分が頂点にいて、その自分が駆使するものだとしているかのような人もいる。
人の魂からの怒りを、よってたかって極悪であるかのように決め付け、その壁で覆って封殺していくものもいる。
・・・・・こうした社会の中に生きていると、何を信じて、何によって生きていけばいいのかわからなくなります。自分が壊れ病んでいくことの恐怖に負けそうになっていく。結局、こんな世は、こっちから捨てるしかない。
・・・・・こうした繰り返しの内で苦しみつづけてきました。だから、”法”というものに希望などもてなくなっているところがあるのです。法で解決することがいいとは思えない、という思想にもなっています。


でも、みけさんがメッセージ下さったように、理不尽な目にあった人たちが声をあげ、周りの人々が応援し、それが必要な人のために、法ができていくのは、本当に必要ですね。動物たちの生命、生きる場もを守る道の一本になる。
本当にそうですね。
私も、自分をもう一度叩き直して、このことをしっかり考えてみたいです。
みけさん、本当にありがとうございます。


ひとつ、異議があるのですが・・・。

>清廉潔白に生きる事が人間の尊厳を守る事であり、

これは私はそうは思わないんですよ。勿論清廉潔白に生きることは素晴らしいことなのですが。
このような定義づけは、欺瞞を作り深めることになると思うのです。またこの清廉潔白って、ABCの人がいるとしたら、ABCとも違う生き方を清廉潔白と言うでしょう。
私など、家や近くの森に捨てられる猫を助けて、周りに迷惑をかける、清廉潔白でない人間としてイジメラレテいます。(笑)

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