”仔猫殺しに思う・自らの両手を血に染めて得られるものなどない”<Big Bangさんのブログより>

下の記事のみけさんのコメント文中に紹介されていた『Big Bang 仔猫殺しに思う・自らの両手を血の染めて得られるものなどない』を検索して記事を拝見してきました。
この方が洞察され書かれているものは、私の臓腑にも飛び込んできました。

坂東眞砂子氏は、あたかも「あらゆる痛み」を引き受けるようなことを言っているが、そうしたことを口にすること自体が、氏の病を、氏自身の救いのために露悪していることであり、そうした追い詰められた心理(=公共のメディアで不要なことを敢えて発言し、その報いを引き受ける(ように振舞う)こと自体が既にある種の彼女の無残であり、破綻である。表現者としての奥のほうでの敗北でもあると思う。

この洞察は猫を殺したかどうかなどに関係なく多くの人に当てはまりますね。勿論私にも。
とにかくこの方の洞察は見逃してはいけないと感じました。
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/08/post_ff71.html


坂東さんの仔猫殺しについて↓のように締めくくられていますが、まさにこの通りなのだと思う。
>その大原則の前では、猫の避妊に関しても、無辜の仔猫の殺戮に何がしの正当性もない。
これは動物愛護活動を真剣にする、したいものに突きつけられた題目だとも思う。私がこの活動をしたくないのは、手術をしているか、どんな飼い方をしてるか、などなどに流れて形を採点していく人や方向が見え、次第に拒否感を強くしていった。・・・そうなのだ、ここを感じていて、それを表す術を知らなかった。(ヌーム)おかげで随分楽になった♪

恣意的に、自分の勝手な判断で他の生命を絶つ自由は、その自らの生を、危うくするという意味において、あるいは簡潔に言えば、その生が幸福に生きるという至極自然な使命を全うする上で、障害以外の何者でもない。繰り返すが他の生命を絶つ理由は、この世のあらゆる生き物にとって(捕食以外)存在し得ないと思っている。

その猫を「飼うこと」が、=その命の生死与奪の全権を握ることではない。

にもかかわらず、その痛みを引き受けた、あるいは引き受けた(と称する)全ての試みは欺瞞であり、そもそもこの世に必要のないものである。不要なものの度合いとしては、かつてのオウム真理教の「ポア」と同じであるとも思う。

その大原則から出発するのが議論の筋であり、その大原則の前では、猫の避妊に関しても、無辜の仔猫の殺戮に何がしの正当性もない。

誰も自らの両手を血に染めて得られるものなどないのである。

>その大原則から出発するのが議論の筋であり、その大原則の前では、猫の避妊に関しても、無辜の仔猫の殺戮に何がしの正当性もない。


あらゆる問題に通じますね。
Big Bang さん、勝手にこんなところに持ってきてすみません。ひとつ覚醒した気がします。ありがとうございました。