今朝もなんでも独語

■夕べの功名が辻
は観れなかった。シンクロW杯がちょうどロシア、スペンと続いたところで、チャンネルを替えることができなかった。というわけで、『太閤対関白』は土曜日の再放送を待つことに。
ちなみに、シンクロ、日本の昨日の団体は銀メダル! おめでとう〜〜〜♪
素人目にもロシアの迫力は圧倒的であった。


■久々にオウム上祐氏
一昨日の筑紫さんの番組に、オウムの上祐氏が出演されていた。筑紫さんと対談という形で、オウムにおける自分の思い、考え、今の心境を述べておられた。彼は、オウムの坂本事件があった時、海外にいて関与はしていないと見られえいたのだそうだが、筑紫さんが、「事件はオウムがやった、とわかっていたのですか。」と訊ねると、「気づいていました。」と答えられた。自己反省のような言葉も出た。


この上祐氏の場面を放送した後、筑紫さんがこの日のゲストだったオウム事件をよく知る弁護士滝本氏に、「今のを観てどう思いますか。」と訊ねると、滝本さんは、「彼はウソつきだ。」と決め付けることしか言われなかった。
滝本さんは、実際にオウム事件の中に入って調べた人らしいので、テレビで観たことしか知らない私などより真実をわかっておられて、その上での発言なのだろうが、・・・私は、こう思った。
『もしも、滝本さんの言われた通り、上祐氏はウソツキで今夜の放送の中の自己反省の言葉などもウソなのかも知れないが、滝本さんのああした決めつけた言葉で吐き捨てる仕業もまた信じるに足りないことだ』と。


私はもう沢山である。圧倒的な”味方”を手にした者の、他者や他者の意見、考えを、見つめようとする前に吐き捨て踏み潰してしまう行為が。
自分の魂がやむにやまれず叫び吐露する感情や言葉を、私は立場や意見や思いの相違を関係なく一度は受け止めたい。それ以外の、ただ他者を排斥したいがための冷たさと感じる言葉に寄ることは出来ない。
世界は、そういう人のままに動いている。人々は、その時、その時の強い側に、ヘェヘェヘェヘェと向いているように見える。そのことがもおおおおおおっ沢山なのだ。
・・・で、私はテレビを観て上祐氏をどう思ったかというと、上祐氏がウソを言ってると感じなかった。求道の人の一人なのだと思った。わざわざ近寄りたくはないが、出会えば心を開いて話してみたい。


これを書いていて思い出した。何日か前、ラジオに鹿島ともこさんがゲストで出ておられた。
彼女もオウム事件の渦中にいた一人だ。彼女は信者で、広告塔と報じられていた。
大分前に脱会され、今は歌を中心に芸能活動をされているようだった。
そのラジオの中で、オウムのことを訊かれて、あの当時、信仰が自分にとって必要であった、という意味のことを答ええておられ、自分は出家したから家を出て教団の内で他の信者と暮らしをともにしたが、信者の人たちはみんな心優しい人たちばかりだった、と淡々と言われた。彼女は誰も悪く言われなかった。
それを聴いていて、泣きそうになった。辛く苦しい人生であったのだろう人の今も悲しみが別の形で続いていることを感じたからだ。鹿島さんのために祈りたくなった。幸せになってください。


■”自分”でいるということ
独りでいる時、人は自由に自分でいられる。
だが、誰かが傍らにいると、その傍らにいる人の数だけ、不自由になる。
こうした人間を弱いとか愚かとか言って決め付ける人にはわからない心の襞をその人は持っているのだ。そういうことなのだ。


■社会のせい、個人の責任
誰かが罪を犯した時、「あの罪は社会のせいだ。」と言う人がおり、「社会のせいにしてはいけない、あくまで個人の責任だ。」と言う人もいる。
私はそのどちらの言葉も口にするが、本当はそのどちらも違うと思うようになった。
例えば、最近観たテレビの中で、オウムの教祖麻原さんやライブドア元社長の堀江さんを、「社会のせい」か「個人の罪」かどちらかに入れて言う人が目立ったが、私は、『社会が生んだが、個人で罪を認める責任がある。』と思った。
麻原さんと堀江さんの、「自分は指示していない。」という言葉、あれは真実かも知れないと思う。群れの中で自然発生するうねりにのみこまれた場合、本人には、自分が指示して発生したのではない、という認識になるだろうからだ。だが、その群れのリーダーでいた以上、うねりを制し得なかった自分は、結果の罪を負うしかないのだ。


もしかしたら、大っ嫌いな小泉首相は、うねりに飲み込まれない自覚を持ち続けていた人だったのかも知れないと思う。その点においては、偉大な人だった(過去形にしちゃいけないかな?)のかもしれないと思う。
私のようなノーテンキ者がこう言っては何ですが、安倍さんは既にうねりにのみこまれている、と感じる。そういう意味で、この人が首相になるのは反対だ。他のお二人? 知りません!


■スタメンでタレント議員考を語っていた
夕べのスタメンで、ゲストの方が、「タレント議員は反対だ。」と言われていた。薦める側も引き受ける人も卑しい精神だ、とまで言っていた。これは、新庄選手に議員出馬を要請している党があるという噂を受けての発言だ。
まったく、新庄選手になんて失礼なことを言うのよ! punpun! いいのよ、彼は。彼が決めたことは何をやっても!


■ペットの行政引き取り有料化
昨日の新聞に、行政がペットを引き取るのを有料にするとことが増えた、とあった。忙しかったので記事の詳細を読まないままでいるのだが、この問題は関心がある。
昔、有料化にすることは、ペットを救うことに繋がると思い、有料化を望んだもんだ。
あれから二十年が過ぎた。残酷な”処分”をされるペットの数はとどまることを知らず、無責任に飼う人が今やただただ恨めしい。
そこで現在も有料化することを望んでいるか否や? と問われると、まずその前に、もっと本腰を入れて、捨てる飼い方がいかに無責任で残酷なことかを、人々に示して欲しい、と訴えたい。
失礼ですが、動物行政に携われている皆様、あなた方が、本気で国民、県民、市民、町民、村民の方々に、捨てるな、不妊手術をしなさい、という”思想”を訴えていると感じたことがない。ただの”おざなり世事”のレベルでチラシを配布しているだけだ。(ただ私のいる茨城のチラシはなかなか内容がありますが。)
もっと早くから、動物問題は”思想”として認識する”思想”、があれば、今頃は捨てる人は殆どいなくなっていたことでしょう。ここのところの認識は、愛護運動家と自負する人にも望みたいです。・・・(わかるかな? 猫や犬にも、自分のことをセンセーと呼ばせていそうな自称愛護家さんにはわかるまい。)


さて、有料化のことですが、有料なら行政に引き取ってもらって殺すのはやめて家で飼うか、貰い手探しを一生懸命しよう、というようになればいいんですが、結局は、人知れず川に捨てたり、崖下に投げ捨てる人が増える、ということになりそうに感じますね。実際、私のいるところは有料化になったのですが、以後、私の周りに置いていく人が増えましただダ・ダ・ダ・ダ!
やっぱ、本気で国をあげて、飼い主への指導ですよ! これなくして、他の何をやっても、ペットは捨てられ、殺され続けます。そして、哀れに思い救い続ける人の苦しみもなくなりません。


それと、ひとつ、質問があります。
有料化して得るお金はどうするのですか? ペット・動物・生き物が生きるために使われるのですか?
悪質な生き物販売業者をこらしめるのに使うとかにも?(これも本腰入れて欲しい!!!)