懐かしのクレコとちび茶

机を整理していたら、もう何年も前に死んだクレコとちび茶の写真が出てきた。
黒猫がクレコ。この子は埼玉県の北本市にいた時、近くのゴミ置き場にポツンと立ちつくしていた。
成長するに従い誇り高い特性を表すようになり、他の猫たちと群れているのを拒絶するようになった。外に出ては自分で居場所を探した。どんなに家に連れ帰り、他の猫と別の部屋にいるように気を配っても外に出た。
いつしか近所のOさんのお宅に居つくようになり、Oさんがクレコのために庭に箱をおき居場所を提供して下さった。
Oさんは、本当にクレコを慈しんで下さり、我が家が引越しをする時、「クレコは私が面倒を見るから。」と言って下さった。
そして私たちはクレコと別れて茨城のここに引っ越してきた。
それから二年経った頃だったろうか。Oさんから、「クレコがSさんがいた家に行くようになり、そこのお宅の人が迷惑がり、またうちの隣家の車に乗るので、ご主人が保健所を呼ぶ、と言われる。クレコを引き取りに来てくれ。」と連絡があった。
すぐに迎えに行った。
後、こうして二階の私の仕事場にいるようになった。
が、クレコはそれでは物足りなかったようだった。二階から降りて、近所の家にまたいつくようになり、そうこうしているうちに病気にかかり他界した。享年14歳であった。
獣医さんは、長命だった、と言って私を慰めて下さったが、私はクレコを幸せにしてやれなかった痛みを持ち、それは何年も経った今も消えない。


ちび茶は、長男が、「史上最大に可愛い猫」と評した愛くるしい顔の猫であった。
北本の家に、毎日のように猫を捨てにこられ、私はご近所や家族の重圧から逃れるように猫たち、犬たちを総勢つれて家から一時間ほど離れた在所に引っ越したのだが、その時、ちび茶は家に残した。この子もまた他の猫たちに混じるのを嫌がる子であったので、その方がいいと思ったのだ。ちび茶は、夫と息子二人に世話され、私も一日おきに帰って食事の支度などをしていたから、ちび茶はのびのびとしていたと思う。
だが、やがて茨城に引越し、また多くの猫や犬のいる暮らしになったのだが、ちび茶はやっぱりそれは嫌なようだった。そしてやはり14歳になった頃病死した。
ちび茶にも私は謝罪の気持ちが今もある。人間の方の勝手を押し付けてばかりいたから。でもそれは、この子達を救うための移動や苦労であった。このことを誰にも察してもらえない寂しさが私にある。
健康だった頃の夫の机の上でくつろぐ、在りし日のちび茶。