秋の陽は透明なれど・・・

■バーコとチビを探し歩く
ある日を境にふいに姿を消した猫のバーコとチビ。
バーコとチビは、それぞれ近隣の別の人に何かをされたのだということはわかっている。これは邪な想像ではなく長年の体験にもとづいた実感だ。
だがバーコとチビが、どこで何をされた、という事実を私は探り当てることはできない。それができたら、とっくにそこが何千キロと離れた暗黒の地であろうと私は駆けつけて二匹を救い出している。


何かをされた、ことを知りつつ、それがどこであるかがわからぬままあてどなく探し歩いていると、悲しみと二匹への不憫さで胸が本当に張り裂けそうになる。


かって、猫のユキがいなくなった時もそうであった。
この時は新聞に折込チラシを入れて配ってもらって探した。
犬のムクが帰ってこなくなった時は、チラシを大量に作り県内の動物病院に送り、足が動かなくなるまで家々のポストに入れて歩いた。
だが、こうやって見つかったことはなかった。
人の何の思い遣りのない好奇心に翻弄されただけだった。それはどういうことかと言うと、チラシに似てる犬がうちの近くにいます、と電話を貰い、色や大きさを訊ね、間違いない、その犬だと言われて飛ぶようにして行くと、色も大きさも一目瞭然に違う犬であったり、メスと言ってるのにオスだったりした。
その人たちは、落胆して肩をおとす私に、「あら、ちがう?」とケロリと言い、知らせて下さった御礼に持っていった物を、「悪いわね、違う犬だったのに、ハハハ。」とケロリと笑って受け取った。
私の家の大事な犬がいなくなったことは、その人たちの責任ではない。その人たちは何も悪くない。
そして、一度いなくなった犬や猫が見つかることは難しいのも誰のせいでもない。


だが、一人でいい。会いたかったよ。本当に似た犬がいて、それを知らせて下さって、違ったことを、犬と懸命に探している私のために悼んでくれる心優しい人に。
残念だが、私はそういう人に出会わなかった。傷を受けただけだった。
その失意が、以後、いなくなった子を探す時、私は無言で独り探し続けるだけになった。
彷徨うように歩いて呼び続ける。
「バーコ、バーコ、バーコ・・・・・・・・・。」
「チビ、チビ、チビ・・・・・・・・。」


余談だが、チラシに似た犬がいる、と言われて駆けつけ、オスだったその犬があまりに哀れで、その子はうちの犬になった。猫もそうであった。・・・チラシを作って探すと、猫や犬が増えていくことになるのだ。
そのことにも傷ついた。勿論その猫や犬に傷ついた、と言うのではなく、これを機に、そこらへんにいて目障りだった猫や犬を連れてってもらおうとする人の浅ましい心に傷ついたのだ。


そとめには立派にされ、立派な言葉を発し、それなりに世間から認められている人が、こういう人であることを、私は猫や犬を通してどれだけ知ってきたことだろう。
そういう人の冷たい怖さは、凶悪犯人よりたちが悪いかも知れない、と思うことすらある。
その人たちは、その人たちなりの敏感さをもって、私が全てを見抜いているのを感受する。その後、私に不幸が訪れる。(もっとも、この不幸は笑って耐えますが。)


■マオ流至らぬ介護・・・食卓で夫が
ディサービスの施設に送っていく時、大幅に遅くなっている時間帯だと、車の中で携帯から施設に電話をかけておくのだが、その時、携帯を夫に渡して、話は夫にさせる。「今、そちらに向かっているところです。大分遅くなりましたが、まもなく着きますので、よろしくお願いします。」というようなことを、夫はちゃんと話せる。
こういう時は、夫の要介護4の認知症はたいしたことない、とすら思う。
だがやっぱり、と思い知らされることは多い。


昨日のことである。
てんぷらが食べたい、という夫のリクエストに応えて、えびを含めて野菜のてんぷらをあげた。体脂肪のつかないという油を使って、なかなかいい感じにできあがった。
大皿に盛って、テーブルにおき、ご飯やお吸い物をよそうほんのわずかの時間・・・この間に、てんぷらが皿から出されて、テーブルの上に、まるで将棋の駒を並べたように並んでいた。それだけではない、それらに、ご丁寧にお水をかけていたのである。


こうするには、ご本人にはご本人のわけというものがあっただろう。
でも、そんなもの知りません! 訊きたくもありません!
私は黙って、庭の犬たちにてんぷらを振舞っただけです。