いじめということ

今朝も外が明るくなって、いなくなった猫のバーコとチビを探しに出た。
車で、隣りのまちの大きな公園を中心に、四方の森や住宅地をゆっくりと走る。
こんな探し方で見つかるわけはないことを知っている。だが、チラシやポスターを貼り、新聞の折込に入れ、近隣の動物病院中にもチラシを貼らせてもらい、方々の小道に入り込んで呼びまわって探しても見つからないのも知っている。
でも、一縷の望みをもって、奇跡を願いながら探しまわる。
寒くなってきた。どんなに夜は寒かろう。雨の夜はどこで凌いでいるのか。おなかはさぞかし空いてるだろう。自分で食べ物を探せるのか。帰りたいだろう。温かな家。いつでも美味しいフードのあった家。甘えることのできた膝。
見つけてやりたい、家に連れて帰ってやりたい、おなかいっぱい食べさせてやりたい、温かな安心できる部屋でゆっくり眠らせてやりたい、見つけてやらなくては。
朝、猫たちが目覚める時間に出ていけば、ふいにその姿を見つけてやれるかも知れないではないか。
朝早いうちは夫はよく眠っている。寝つきが悪く、時々真夜中の徘徊もする夫は、朝方は割合よく眠ってくれる。その間は私がいなくても大丈夫なのだ。そしてこの時間は猫たちが活動をはじめる。
それで朝方になるとバーコとチビを探しに出るのだ。


だが今日も見つけてやることはできなかった。
公園には、バードウォッチングの人が集まりだし、それで私は諦めて家に帰る。
家に着くと、ある人が甲斐甲斐しく何かの荷物を車に移しておられた。
地域の役をされていて、誰彼に腰の低い挨拶をされ愛想のいい笑顔を見せられる。住宅地の内外の道路の草を、時々機械で刈り取られ、道を綺麗にされている。
近隣の人のためにつくす人だ。そのことがこの人の喜びになっているのだろう。
本当に絵に描いたように、いいおじさんなのだ。
奥さんもそうである。常に愛想がよく、お隣の高齢者の方に特に親切だ。
町内の農家でバイトをし、そこでもらった野菜を近所の人にわけておられる。私もしょっちゅう、キャベツやトマトをいただく。
この上ないいいご夫婦である。
それなのに不思議なのだ。このご夫婦をよく言う人は少ない。ある若い主婦の人は、「何かあってもあの人にだけは相談できない。」などを言葉にされたこともある。


そして、私だ。私も、こんなにそとめに立派にされているこのご夫婦を信用できない、と思っているのだ。
私の場合は、猫や犬のことを通して、人には言えない、この人たちの仕打ちを知っている。
地域の役をすることに積極的で、いつも甲斐甲斐しく地域の雑用などをされながら、そうやって広めていく人間関係の中で、私の家の捨てられる猫や犬の問題を、自分の考えのままに言いふらしておられる。いちいち知ったことを書いていたら一日が終わるほどある。ひとつだけ言うと、私の家の猫や犬たちはおろか、森に住む猫たちの不妊手術をしていることをいくら話していても、うちで生んだ猫、としか思わないのだ。これは悪意でそう考えておられているのではない。私の言葉の意味を、ちゃんと聞こうとされないだけなのだ。つまり、彼にとって、私はそれだけの価値しかない、のである。何も悪いことではないのだ。感じないことを感じないままにしているだけだからだ。


・・・何を書こうとしているのだ、私は。
つまりこの人にとって、よその飼い猫がいなくなることは、自分や近所の人の車にのらないことになり、庭でフンをすることもなくなることで、いいことなのである。その猫を”処分”することは”正義”なのだ。
勿論、車にのられたり、庭にフンをされたりというのは、私以外の人間にとっては大変な迷惑なことだ、ということを承知で言うのだが・・・猫が車に乗る、フンをする、ことは、その家の人をいじめている行為ではないが、その猫を許さず、猫の生存の権利をも許さず、そこにいることをも許さず、のみならず、その許さない自分の感情を、正義と位置づけて他者に影響を与え、猫も飼い主も排他してしまう流れと根本は、”いじめ”だということだ。
・・・もってまわった言い方をしているから、ああ疲れた。大分言葉足らずだがここでやめよう。