続 いじめということ

”いじめ”は未来永劫なくなりませんよ。例えば、学校、グループ、会社など集団の中で、そこでの権力を持った人間の「セーノ」で、特定の人間をシカトしたり、言葉や力の暴力をふるったりという”いじめ”は、手段によって、その場はなくせるかもしれないが、結果的におこる”いじめ”は絶対に、どんなに心優しい人間ばかりの中であってもおこる。なぜなら、誰かが、”いじめられた”と感じれば、それはいじめであるし、必ず、”いじめられた”と感じる思いは誰にもあるからである。


私は、↓の記事のように、猫や犬のことで、”いじめられた”と書いたり言ったりすることはあるが、実際の生活の中では、いじめられた、とはしない。
明らかにいじめ的なことを受けることは本当にあるのだが、それをいじめと自覚して生活はしない、ということだ。
”いじめ”をこちらがシカトしてしまうのだ。そうするといじめ的な形は消えてしまう。猫がどこかに捨てられるなどがある時は、私の中に悲しみや虚しさは残るが、それ以上のものは出てこない。
こうして生きるのが、私自身の『知性』であり、言葉にするとおこがましくていささか抵抗があるが、『愛』である。


続きは気がむいた時に。