人権擁護法案

人権を擁護するのはいいことだから、一見この法案いい法案のように見えるけれど、実は怖い法案である、というのは、日頃暢気者の私でも感じることで、頭のどこかにかさぶたのように残っていた。
今日、ミクシィのコミュを巡っていたら、この法案に反対する人がいて、あらためて、「そうだ、この問題忘れちゃいけなかった。」と思った。
それにつけて思うのは、動物に関する法律の問題である。動物たち自身は、「ぼくらの生きる権利!」「私たちの生命!」「うちらの居住権!」など言わない。そこで、動物たちのそれらの権利を考える人間が、法律を作って、動物たちを守ろうとする。
このことはとても大事なことで、ぜひとも広く深い視野の法律ができることを望んでいる。
でも悲しいかな、動物たちに関する法律は、動物たち自身が何も言わないというところにおいてかどうか知らないが、折角法律ができても、その法律を守るべき側の行政自身が無きに等しい扱いしかしない、つまり正当に始動させないから、怒りを通り越して、私など虚無に沈んでしまう。


本音を言うと、虚無感だけではなく、ひとつ、人権擁護法案に対する不安感と同じような不安を感じるんですね。
どういうことかと言うと、愛護法を盾に、形の上で動物の飼い方が不備に見える人を圧殺していくのではないか、という不安です。不信と言ってもいい。
動物(この場合は猫や犬などペット)の飼い方がセレブ化して、それに合った飼い方が正しく、そうでない飼い方をするものは虐待をしている、という図式で考える流れができていないか、ということへの不安、不信です。


私は、一見、至れりつくせりのペットの飼い方をしている人が、実はその前に飼っていた犬に食事を与えず死なせようとしていたのを知っている。
また、猫は四年と決めて、四年経ったらさっさとどこかに捨て、新しい猫を、いかにも可愛がってる風に飼っている人がいるのも知っている。
私はそれらを知ったからには、見過ごすことができず、そうされる犬や猫を守ってきたが、世間は、その人たちの口の方を信じる、というか、何も考えず、自分に都合のいいように言い立てる方の人間に寄る、ということです。そう、法律の殆どは、そういう人たちが我が物にする、ということです。
そんなこんなで、動物を愛護する法律も人権擁護法案も、使いようによったらどうなることやら、という話です。・・・このこと、ミクシィのコミュのトピックにあげてみようと思うのだけど、どう書きゃいいのだ?