最近の夫の様子 与えられるもの

ここのところ夜間の徘徊がなくよく眠ってくれる。
ではそれで落ち着いているかというとそういうわけではない。
今朝も、気がつくと、ベッドにまだ横になっている状態のままカーテンも窓も開け、全裸状態で手遊びをしている。風邪をひくという心配と、外からそんな姿が丸見えになっているから、人の餌食になることへの悲しさが瞬間的によぎって、何ともいえない落ち込みを覚えた。
風邪をひく心配は当然のことだが、”人の餌食になる”という感覚は自分の神経が病んでいることの証で、そのことにひどく落ち込むのだ。このように感じてしまうようになったのには、それなりの辛い経験が幾多もあったからだが、そうしたことを世の常、悪気をもたれてのことではないのだから、と笑って気にしない寛容さ、心の広さ、強さが自分にないことのこの寂しさと苦しさは結構しんどい。


夫の最近の様子の中で、なかなか笑って見守る、というようになれないことがもうひとつある。
食事だ。食卓に出したささやかな、でもそれなりに夫の健康や嗜好を考えて作ったものを、水の入ったコップや、おつゆの椀に入れてグッジャグッジャにしてしまうことだ。
食べないと身体によくない、という当然の気がかりだけではない、何かカッとなってしまうのである。カッとなったまま、夫のグジャグジャにしているその手を思いっきり叩いたこともある。
その後の惨めな気持ちといったら、もお生きていく意味も望みもない、という気分にまでしてくれる。
ひとりぽっちで重い重い荷物を背負ってきた自分へのそうした憐憫が、尚一層生きる気力を奪っていく。


でもどんな時でもそのまま時間は進んでいくものです。時間にはあがらえない。そのまま過ぎてゆく。・・・ここです。この過ぎてゆく、一見怠惰な時刻を過ごしているように見えるこの時刻に、その人、その人に必要な”何か”が与えられる。それぞれに。
私のような横着者にもそれは与えられます。
だから生きてゆけるのです。