西遊記 最終回『天竺』

苦難の末、やっと天竺に着いた三蔵法師一行。だが、妖怪の孫悟空猪八戒沙悟浄は中に入ることは許されない。「みんなと一緒でなければ私も入らない。」と中へ入ることを拒む三蔵法師。「多くの苦しむ人々を救うために来たんだろ、お師匠さんは入らなきゃだめだ。」と言う孫悟空たち三人。
ここの別れのシーンには思わずホロリとしてしまった。三蔵法師深津絵里孫悟空香取慎吾猪八戒伊藤淳史沙悟浄内村光良ともにひたむきで真摯な美しい眼差しであった。


『天竺』
そこには、人々の苦難の世を憂い嘆き、人々を慈しみ、救おうとしている高僧たちがおり、お経はそのためにあるはずであった。三蔵法師はそれを信じ、夢見て、ひたすら荒野を自らの足で歩き辿りついたのであった。


だが、三蔵法師を待ち受けていたものは、その反対、もっとも残酷な運命であった。天竺の中の僧たちは、自分たちの安泰に胡坐をかき、冷酷で、計算高いものたちばかりであったのだ。
そう、人々の苦しみどころか、人の心をわかろうとする心をも失った、”愛のない堕落の象徴”のような僧たちばかりであったのだ。
その頂点に君臨する僧は三蔵法師に言う。
「99(90?)日間、修養の経をとなえ、その後、命を捧げるのだ。それが、お前の”ありがたい経”なのだ。それこそが人を救うのだ。」
まさにこの言葉は、現代に氾濫している、”力あるものが、下の存在の者を抑圧し、他者の魂を搾取して己を太らせようとする時に用いる”欺瞞、偽善の堕落を表した言葉である。
三蔵法師は一瞬我が耳を疑うが、それに従う。この三蔵法師の従順は、弱いからでも愚かだからでもない。三蔵の心は常に、”仏(天)にむいて純粋であった、その故の、これが己の使命と信じる決意”であった。


何日か経ち、りんりんちゃん(水川あさみ?)から、三蔵法師の現実を聞いた孫悟空たち三人は、驚き怒り、仏法を犯すことを怖れず、三蔵法師を救いに天竺に入る。
牢獄のような修養の場で、痩せ細りだがなお凛としてかつ慈愛をにじませる三蔵法師孫悟空は再会する。孫悟空は、柵を破ろうとするが孫悟空の力を持ってしても壊れない。
「その柵は、私の心なのです。私が出ようとしなければ開きません。」静かに言う三蔵。
「出ようと思ってくれよー!」と声を振り絞る孫悟空
私はこのシーンが好きだった。孫悟空の説教めいたトーンが気にはなったが、物語の美しい核のひとつとなるこの場面は、深津絵里の深みのある綺麗な瞳と、香取慎吾の成長を遂げていく人の確かさを感じる演技で成功していた。
やがて、自分の手を握り締めてきた孫悟空の手の暖かさと、「人を救うということは、自分が生きていてこそではないのか。」という心のこもった言葉によって、三蔵法師の心は開かれ、柵が一本づつ倒れていく。この柵が倒れていくシーンの撮り方は素敵でしたね。まるで花びらが一枚一枚開いていくようでした。三蔵の心をよく表していると思いました。


天竺の高僧(この役者さんは、独特の個性と精神性を持った高名な人なのに名前を度忘れしてしまいました)は、「出ていけ〜」と、いかにも三蔵法師を放免したように言ったが、実際は、三蔵を殺そうと思っている。
それを察知した孫悟空は、三蔵法師猪八戒沙悟浄を先に行かせ、自分は一人残って、多数の戦闘僧と壮絶な戦いを繰り広げ、ボロボロになる。まるで在りし日の三船敏郎のようなカッコヨサである。当然、三蔵たちが孫悟空を救いに戻る。
やがて、不思議な一陣の風に助けられ、外界に出る四人。そして、なんとも頼りなげな奇妙な老人の家に着く。老人に、傍若無人に振舞う孫悟空老子大倉孝二)が来て、「な、なんてことを言うか!」と孫悟空を叱る。(この回の老子は大事な役どころでよかった)


この老人こそ誰あろう、お釈迦様その人なのである。ジャーン! そして誰あろう、先の大人気孫悟空であった堺正章その人なのである。ジャジャジャジャーン!
お釈迦様は、三蔵法師に山ほどもありがたいお経を手渡すのある。ジャジャ!


これでめでたく終わると思いきや、もうひとつドンデンガエシがあった。お釈迦様がさらわれ、お経が白紙になってしまったのだ。
三蔵法師は、お釈迦様とお経を救う旅に出る、と言う。「た・たび〜!!!」とのけぞる孫悟空たちであるが、きっと、近いうちに再び、素敵な四人の旅の物語が観れるに違いない。・・・・・そこでお願いなのですが、次は、孫悟空のあの説教好きは何とかして下さいませネ。ジャンジャン!