第十二回 信玄の影

歴史に疎い私でも、『武田信玄』がどのように評価をされてきた人か知っている。あの織田信長をも怖れさせてきた勇と知を備えた武将である。
今回は、”信長(舘ひろし)が、その信玄と立ち向かわざるを得ない状況を迎え、信玄の動向を知力をかけて探ろうとしている時から、信玄の死を知り、自分を操る影から解放されて一気に動こうとする”までを背景にして、千代(仲間由紀恵)が秀吉から預かり、慈しみつつ学問や礼儀作法を教えて来た秀吉の妹の子、治兵衛(後の秀次)が人質に出されて行くことや、一豊(上川隆也)に本当に心惹かれるようになってしまった小りん(長澤まさみ)の心情と行動、小りんへの愛(あ、間違えました。千代への、デス)を秘めつつ、一豊にその真の姿(浅井の忍びであることの)を表し挑む六平太(香川照之)と一豊の決闘、そして、室町幕府最後の将軍、足利義昭三谷幸喜)の滅びていく姿と、義昭に己の義と夢をかけていた明智光秀坂東三津五郎)の苦悩する姿を描いている。
信玄は、『風林火山』の旗が山を揺るがす怒涛のようにはためく、という形で表わされているので姿は見えず、観る者としては、誰が信玄になるのだ? という興味が裏切られたが、いい演出だと思った。


私が興味深く観た場面は、小りんが、一豊に、「叡山で、女、子供を殺した、あれが武士か? 私と野武士になって生きよう、野武士は誰にも頭を下げないで生きる。自由だ。」と誘うところと、六平太が一豊と真剣な戦いをする中で、「毛利につこう。」と囁くところである。まるで、聖書の中の、イエスを誘惑にきた悪魔の存在のような描き方で、重みのある面白い場面であった。


一豊は、小りんに、「わしはお前が思うような強い人間ではない。ただ天運がついている、と千代が言った。」と言う。この”素直な言葉に潜む強い意味”に私は惹かれ、この言葉の意味をよくわかって演じる上川隆也の確かさ(一豊の清廉さ)にあらためて感激した。
小りんの長澤まさみにも感動する。小りんは、一豊のこの一言で、いかに一豊が千代を愛しているかを思い知るのだが、この時小りんが一瞬見せた苦渋の表情には強い悲しみがあり、私は、長澤まさみがこの若さで、こうした汚れ役に無私に挑んでいることに胸打たれたのだ。
香川照之の陽光照る日の”深い陰”を潜めた、善悪に留まらない存在感には観ていて胸がわくわくする。この人はどんな俳優になっていくのだろう。名優であると言われる役者になられることは間違いないよね。
三谷幸喜の義昭は熱演で、その敗北の姿はうら寂しく悲しい。そして、信長に取り立てられ、坂本城の城主となった明智光秀の、義昭を征夷大将軍に盛り立てることを義と夢とし、それが叶ったはずだったのに、義昭を自分の手で撃たなくてはならなくなった胸中を表す三津五郎も、痛みとともに観ている側に届いてきた。将軍として最後の義昭と対する光秀の背後から、青い影がすうっとさしてくるように現れる信長の姿には思わずぞっとする。信長は、ひそとして光秀を窺っているのだ。信長は光秀の内在しているものが怖いのだ。光秀を決して心ゆるしてはいない。


信長は、光秀が内在させているものの何を一番怖れていたのだろう?
私は、”慈悲、慈愛”、それも義のともなったものだと思う。光秀は、それの人であったのだろうと、このドラマであらためて思った。
慈愛も真の義も、知力でも権力でも得ることはできない。
話はそれるが、ユダがイエスを売った最大の核も、金貨が欲しかったなどではなく、イエスの愛にとうてい届かない自分であることの絶望であった、と私はかねがね思っているのだ。
光秀は、信長を怯えさせる”絶対の愛”を持っていたのだ、と思うのだ。この回で、義昭に、「ここを出て下さい。」と言うが、あれは義昭を救いたい必死の心であったろうと思う。あの言葉を信長は背後で聞いていた。信長は、その言葉は、政治的意味合いでも利害がからんだものでもなく、ただただ光秀の慈愛と義が言わしめたことを察知していただろう。だからこそ、光秀を追い詰めないではいられない”さだめ”を負ってしまったのだろうと思う。そういう意味で、信長は天才であったかも知れないが、極めて人間くさい人であったのだろう。(当然の前提だろうが)
舘ひろしは、立ち姿だけでかみそりのような冷たさであたりを圧し、そういう信長をよく出していると思う。
三津五郎の光秀に、妻槙の烏丸せつこは、いかにも知、教養、節義、文化性をそなえた夫婦だと伝わりしっくりくる。


さて、舞台は、信玄の死で、もう何も怖れるものがなくなり、浅井の小谷城を目指して出陣する信長の軍勢に移る。・・・お楽しみはこれから!

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